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王宮の獣護   作者: 夜夢子
第3章

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願い

王宮南門。昼の喧騒が嘘のように静まり返った回廊を、軽やかな足音が一つ近づいてくる。門番を務めるジンリェンはその気配に気づき、背を向けたまま軽く目を伏せた。


「……殿下、夜分にどうされました」

「なに、顔を見に来ただけだ」


声の主は、第一王子アルフォンス。黒の外套に金の縁取り、控えめな装飾の中にも威厳を帯びた衣が、彼の立場を静かに物語っていた。


「……フーリェンは、もう行ったか?」


その問いに、ジンリェンはわずかに笑った。


「ええ。つい先ほど」

「そうか。……迷わず行けたか?」

「はい。問題なく」


淡々と答える従者の声に、アルフォンスは目を細める。普段は過保護な程に弟を想う目の前の白狐の兄。それが、外へと出かけていく弟の背を黙って見送ったというのだから、面白い。


「お前も、出かけたらどうだ。祭は続いているし、祝宴の席もまだ残っている」


ジンリェンは首を横に振る。


「それが……先ほど第四軍の兵士に顔を見られまして。すっかり飲みの約束を取りつけられました」

「なるほど、それは逃げられないな」


アルフォンスが苦笑しながら肩を竦める。


「どうせなら楽しんでこい。第一軍と第四軍が並んで飲むなど、滅多にない光景だ」

「そうですね。……たまには、悪くないかもしれません」


ゆっくりと背を伸ばし、再び夜の街を見やる。門の外に広がる王都の灯が、遠くきらめいている。


「……今夜は、良い夜です」

「まったくだな」


華やかな灯りのひとつひとつの中に、弟の背中が紛れているのを想像しながら――


(せめて、今夜だけは)


ふと、そんな願いが胸をよぎる。


(……お前が、心から笑っていられるような時間でありますように)





























扉を閉めると、街の喧騒は一気に遠ざかった。宿の小さな部屋には、窓から月光が射しこみ、木の床に淡く模様を描いていた。


フーリェンは無言で外套の留め具を外し、壁際の椅子に丁寧に掛ける。その動作ひとつすら、見慣れているはずなのに、今日だけはどこか違って見えた。


「……寒くないか?」


声をかけると、彼女は小さく首を横に振る。


「平気」


それだけ言って、ベッドの端に腰を下ろした。白い尾がふわりと布団の上に滑り、狐の耳がぴくぴくと遠くなった外の音を拾い上げようと忙しなく動いている。自身も隣に座り、互いに背を壁に預けるようにしてふっと一息つく。肩が触れそうな距離に落ち着いた。


窓の外では、遠くからまだ祭りの音が聞こえていた。けれどここでは、それもぼんやりした残響にすぎない。


「…疲れたな」

「………そうだね」


そう言葉を吐けば、低く、感情の少ない声が返ってくる。隣に顔を向ければ、長く伸びた睫毛が月光に淡く縁取られていた。


「……髪、少し伸びたな」

「切る時間がなかったからね」

「伸ばさないのか?昔は、少し伸ばした時期もあったろ」

「あったけど、鬱陶しいから切る」


即答だった。思わず吹き出しそうになるのをこらえる。


「そういうとこ、変わってないなお前」

「……シュアンもね」


互いにそれきり口を閉じたが、沈黙はどこか心地よかった。


シュアンランはちらりと隣の女狐を見やった。いつもと違う姿、いつもと違う表情。纏う空気はいつもよりずっと柔らかく、ぼんやりと窓の外を眺める琥珀色の瞳は僅かに窓から漏れ出る街の灯りを反射して宝石のようにきらきらと輝いている。白の尾がふわりと揺れる度、その柔らかな毛並みが指先に触れる。


「フーリェン」


名を呼ぶと、フーリェンはわずかに首を傾けてこちらを見た。その視線には戸惑いも警戒も見えない。ただ、静かに受け止める意志だけがあった。


手を伸ばし、そっとその白い髪を撫でる。指先に伝わるやわらかさが、ひどく懐かしかった。月明かりが、フーリェンの頬をやわらかく照らしている。その光の下、シュアンランはゆっくりと手を伸ばした。白い髪をすくい上げるようにして、そのまま首筋へ、肩口へと視線を滑らせる。


ほどいたシャツの襟元から、覗いた肌――


そこには、北の戦場で負った深い爪痕がうっすらと残っている。以前のような酷い裂傷痕はない。しかし、僅かな痕跡は消えていない。


そっと指先でなぞる。確かめるように。


フーリェンは、何も言わなかった。抗いもせず、目を伏せて、ただその指先の熱を受け止めている。


「……痛まないか?」


問いかける声は、ごく小さかった。彼女は答えない。ただわずかに首を横に振る。


どちらからともなく身体を寄せる。鼓動が伝わってくる。ゆるやかに部屋を満たしていく。


温度が、ゆっくりと重なっていく。


――何も急がなくていい。ただ、今夜だけは、互いの存在を確かめるように。


窓の外では、祭りの最後の音が、夜の帳に吸い込まれていった。誰にも邪魔されない静寂の中で、シュアンランはそっと目を閉じた。


もう少しだけ、この夜が終わらなければいいと、そう願いながら。

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