願い
昼の喧騒が嘘のように静まり返った回廊を、軽やかな足音が一つ響いている。
その気配に門番を務めるジンリェンは背を向けたまま軽く目を伏せた。
「殿下、夜分にどうされました」
「なに、顔を見に来ただけだ」
声の主は第一王子アルフォンス。黒の外套に金の縁取り、控えめな装飾の中にも威厳を帯びた衣が、彼の立場を物語っていた。
「……フーリェンは、もう行ったか?」
その問いに、ジンリェンは小さく笑った。
「ええ。つい先ほど」
「そうか。……迷わず行けたか?」
「はい。問題なく」
尚も振り返ることなく街明かりを見つめる狐の尾は、落ち着きなく揺れている。
アルフォンスはそんなジンリェンの隣に並び立つと、慰めるように彼の肩へと手を置いた。
「お前も、出かけたらどうだ。祭は続いているし、祝宴の席もまだ残っているだろ」
そんな主からの提案に、ジンリェンは首を横に振った。
「それが、先ほど第四軍の兵士に顔を見られまして。すっかり飲みの約束を取りつけられました」
「それは逃げられないな。どうせなら少し肩の力を抜け。お前はいつも過緊張気味だ」
「そうですね。……たまには、悪くないかもしれません」
それを最後に、ジンリェンはゆっくりと背を伸ばし、槍をくるりと回した。
頭上を見上げれば、星々が遠く煌めいているのが見える。
「……今夜は、良い夜です」
「まったくだな」
華やかな灯りの中に、弟の背が紛れているのを想像しながら――
(せめて今夜だけは)
ふと胸の中に過ぎった願いが叶うことを祈って、ジンリェンは目を閉じた。
(お前が、心から笑っていられるような時間でありますように)
扉を閉めると、街の喧騒は一気に遠ざかった。宿の小さな部屋には窓から月光が射しこみ、木の床に淡く模様を描いていた。
フーリェンは無言で外套の留め具を外し、壁際の椅子に丁寧に掛けている。なんて事ない動き。だがその動作ひとつすら、今日だけはどこか違って見えた。
「寒くないか?」
声をかけると、彼女は小さく首を横に振る。
「平気」
それだけ言って、ベッドの端に腰を下ろした。白い尾がふわりと布団の上に滑り、狐の耳がぴくぴくと遠くなった外の音を拾い上げようと忙しなく動いている。
自身も隣に座り、互いに背を壁に預けるようにしてふっと一息つく。肩が触れそうな距離に落ち着いた。
窓の外からは、微かに祭りの音が聞こえていた。けれどここではそれもぼんやりとした残響にすぎない。
「疲れたな」
「……そうだね」
そう言葉を吐けば、低く抑揚のない声が返ってくる。
隣に顔を向ければ、長く伸びた睫毛が月光に淡く縁取られていた。
「……髪、少し伸びたな」
「切る時間がなかったからね」
「伸ばさないのか? 昔は、少し伸ばした時期もあったろ」
「あったけど、戦に出たら邪魔だから切る」
即答だった。思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
「そういうとこ、変わらないよなお前」
「……シュアンもね」
互いにそれきり口を閉じたが、沈黙はどこか心地よかった。
シュアンランはちらりと隣の女狐を見やった。
いつもと違う姿。いつもと違う表情。
纏う空気はいつもよりずっと柔らかい。
ぼんやりと窓の外を眺める琥珀色の瞳は、窓から漏れ出る街の灯りを反射して宝石のようにきらきらと輝いている。
白の尾がふわりと揺れる度、その柔らかな毛並みが指先に触れる。
「フーリェン」
名を呼ぶと、フーリェンは僅かに首を傾けてこちらを見た。その視線には戸惑いも警戒の色も見えない。
手を伸ばし、そっとその白い髪を掬い上げる。指先に伝わる柔らかさが、ひどく懐かしかった。
シュアンランはゆっくりと手を伸ばした。
白い髪をすくい上げるようにしてそのまま首筋へ、肩口へと視線を滑らせる。
ほどいたシャツの襟元から、覗いた肌。
そこには、北の戦場で負った深い爪痕がうっすらと残っている。以前のような酷い裂傷痕はない。だが、痕跡は消えていない。
そっと指先でなぞる。確かめるように。
フーリェンは何も言わなかった。抗いもせず、目を伏せて、ただその指先の熱を受け止めている。
「……痛まないか?」
問いかける声は小さかった。彼女は答えない。ただ首を横に振っただけ。
どちらからともなく身体を寄せる。鼓動が伝わってくる。心地よい音が、部屋を満たしていく。
何も急がなくていい。
ただ今夜だけは、互いの存在を確かめるように。
窓の外では祭りの最後の音が夜の帳に吸い込まれていった。
誰にも邪魔されない静寂の中で、シュアンランはそっと目を閉じる。
もう少しだけ、この夜が終わらなければいいと、そう願いながら。




