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王宮の獣護   作者: 夜夢子
第3章

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花冠

夜の風が、静かに通り過ぎる。

 

王都の灯が遠く瞬くその下で、屋根の上の一角だけが、ぽつりと別の時を刻んでいた。


南門のすぐそば――古びた店の屋根上。


傾いた煙突の脇、積まれた木箱を背にして、ひとりの狼が座っている。灰銀の髪を夜風になびかせ、肩には柔らかな外套。手にした串をのんびりと口に運びながら、シュアンランはどこか夢見心地のまなざしを夜に向けていた。


頭には祭で出くわした兵士たちに半ば強制的に乗せられた花冠。軽口ひとつで断れず、そのままかぶせられたものだったが、今はそれも悪くないと思えていた。


「……まったく、似合わんって言ったのに」


誰に言うでもなく独りごちて、串をひと噛みする。口の中に広がる甘辛い味。それすらも、今夜の浮ついた空気に馴染んでいた。


この場所は、任務中に目をつけて、住人に事情を話して許可を得た隠れ場所だ。中心からは離れているが、王都を見渡すには絶好の位置。


「……そろそろか」


ぽつりとつぶやいたときだった。すぐ横の屋根瓦が、わずかに揺れた。風ではない。足音でもない。ただ、「気配」が、確かにそこにあった。

 

ちらりと視線を向ける。淡い月明かりの中、すっと影が立っている。外套をまとい、首元には銀の紋章。白い狐耳が、風に揺れていた。


「……フー」


フーリェンは何も言わなかった。ただ屋根の端に静かに降り立ち、じっとこちらを見下ろしていた。その姿にゆっくりと手にした串を下ろし、唇の端を少しだけ上る。


「早かったな」


その言葉に、フーリェンはわずかに目を細めた。返答はない。僅かな表情の動き。彼女にしかわからない曖昧な感情。それでもシュアンランは気にしなかった。風がまたひとつ吹き抜け、フーリェンの肩を覆う灰色の外套を優しく揺らした。


思わず、じっと見てしまう。

 

それは、久しぶりに見る姿だった。


繊細な輪郭。夜の帳に溶け込むような白い髪。そして、ほのかに紅を差したような唇。いや、それは月光の錯覚かもしれないが――。それすらも、今の彼女にはよく似合っていた。見れば見るほど、胸の奥がざわめいた。言葉にすれば壊れてしまいそうなもの。手を伸ばせば、逃げられてしまうかもしれないもの。


だからこそ、静かに見ていた。しかしその視線に、フーリェンはわずかに身を揺らす。伏せた睫毛の奥に、一瞬戸惑いが滲んだ。


「……そんなに、見ないでよ」


低く、掠れるような声だった。けれど、それがどこか幼く、か細く聞こえたのは、きっとこの姿のせいではない。それでも、シュアンランは目を逸らさない。ゆっくりと口を開く。


「なんで……そっちで来た?」


声は穏やかだった。責めるような響きはない。ただ、心の底から気になったのだ。その言葉に、フーリェンは少しだけ間を置いてから、屋根の縁にそっと腰を下ろした。


「……なんとなく」


それだけを言って、黙り込む。言葉足らずなその返答は、彼女らしいとも言えたが、今夜は違った。シュアンランはすっとフーリェンの隣に歩み寄り、少しだけ距離を取って腰を下ろす。視線を月に向けかけたところで、隣からぽつりと声が落ちた。


「……着替えてこなかったの?」


その声にふと、自分の服に目を落とす。そこにあるのは、いつもの隊服――王子の護衛としての、顔。


「……ああ、そういえば」


苦笑するように言いながら、少しだけ肩を竦めた。


なるほど。フーリェンが女狐の姿で、しかも街娘の服に身を包んで現れた理由が、少しわかった気がした。


 ――今夜は、そういう夜なのだ。


気を抜くこと。緩むこと。ただの「自分」でいることを、許される夜。なのに、自分はまだ鎧を脱げていない。そう思うと、なんだか少し、照れくさくなった。


「着替えてきた方がいいか?」


そう尋ねると、フーリェンはそっと首を横に振った。


「……別に、いいよ。見慣れてるし」


その声音は静かでやや素っ気なかったが、月の光が照らす彼女の横顔に浮かんだ、わずかな緩みをシュアンランは見逃さなかった。


ふと、隣に座るフーリェンが身を乗り出した。


その手が、自身の頭にそっと伸びる。何かを払うようでもなく、優しく、丁寧に――その手は、彼の頭に乗っていた花冠をそっと取った。


驚いて視線を向けると、フーリェンは何も言わず、そのままそれを自分の頭に被せた。少しずれた位置を片手で直しながら、月明かりに照らされるその横顔は、どこか楽しげで、子どもじみた小さな悪戯にも似ていた。けれどそれだけでは終わらなかった。フーリェンは外套の内側に手を差し入れ、くしゃりとした感触の花冠をもう一つ取り出す。それは、先ほどのものよりも少し大きく、より丁寧に編まれた造りだった。それがあらかじめ用意されていたものだとすぐに気づく。


言葉の代わりに、フーリェンが体を寄せてくる。片手で彼の髪を軽く押さえ、もう片手でそっとその花冠を乗せた。触れた指先が、ほんの一瞬、頬にかかる。わずかに鼓動が跳ねる。


「……こっちの方が、似合う」


そう呟いたフーリェンの声は相変わらず小さかったが、その目元には、どこか満足げな光が宿っていた。


シュアンランは花冠の重みを感じながら、黙ってその横顔を見る。


なるほど――そういうことか、と。


交換された意味。それがただの「気まぐれ」ではないことくらい、もう分かっている。昔の彼女なら、何も言わずに立ち去っていたかもしれない。でも今は、こうして、自分の手で選んだものを相手に渡せるようになった。


その変化が、何よりも嬉しかった。


「……ありがとな」


そう言うと、フーリェンは照れ隠しのようにほんの少しだけ目を逸らした。その仕草すら、愛しくてたまらなかった。

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