休暇
祭りの音楽がまだ遠くで響いているなか、フーリェンとユキは若者たちの輪から静かに離れ、石段の上へと戻ってきた。
「……戻りました」
フーリェンが静かに声をかけると、ルカは振り返り、わずかに目を細めてた。
「楽しかったかい?」
「……はい」
「ふふ、それならよかった」
笑みを含んだルカの声を横に、ユキは母へと向き直る。
「ね、母様。フーってば意外と踊れてたでしょ。最初ぎこちなかったけど、慣れてきたらリズムも合わせてくれてさ」
「……喋りすぎ」
少し眉を寄せながら、フーリェンはぼそりと呟く。だが完全には否定していない。そんな和やかな空気のなか、控えていた第四軍の兵士が数歩前に出る。
「フーリェン隊長、交代の時刻です。あとは我々が引き継ぎます」
「…了解」
兵士へと短く答えたフーリェンに、ルカは小さく頷いた。
「フー、護衛ご苦労様。明日は休暇だね。最後の一日くらい、肩の力を抜いて過ごすんだよ」
「…ありがとうございます」
「お疲れさま、フー」
ナージュがやわらかに言い添え、ユキもにっと笑う。
「いい休暇にしてね。また踊る機会、あるといいけど」
フーリェンはその場にいる全員に一礼を送る。いつもの無駄のない所作――だがその目元には、わずかに和らいだ影が見えた。静かにその場を離れながら、兵士から受け取った外套のフードを深く被る。闇に溶けるように王宮へと歩いていく。まばゆい祭りの音と光が遠ざかる。背中に夜風を受けながら、フーリェンはふと、先程の感覚を思い出す。やわらかく、けれど臆せず握られたその手のぬくもりが、まだほんの少しだけ、指先に残っていた。
――――
扉を閉じる音が、静かに部屋にこだました。
外套を脱ぎ、壁の鉤にかけると、そのまま無言でベッドに身を投げる。天蓋のない簡素な寝台。白いシーツに頬を預けて、ようやく深く息を吐く。
「……疲れた」
王都の声は、ここまでは届かない。静寂が、じんわりと身体に染みこんでいく。
仰向けになったまま、ゆるりと天井を仰ぎ、次に横を向いて小さな振り子時計に目をやる。時刻はまだ、宵の深みに差しかかったばかり。夜は、もう少し続く。視線がそのまま、机上に用意していた衣服へと流れる。
――淡い灰色のスカートに、首元の詰まった薄手のシャツ。
野暮ったさのない、けれど街で見かけるごく普通の娘の服。
フーリェンはしばらく、じっとその服を眺めた。何かを思案するようにわずかに眉間を寄せてると、静かに身を起こし、寝台から立ち上がる。靴を脱ぎ、隊服の上着を滑らせるように床へ置く。シャツの袖に、そっと腕を通す。慣れた手つきで腰にスカートを巻き、白の短髪を軽く左右に振る。
そして――
ふと思い出したように、息をひとつ整えると、瞼を閉じ、内に意識を沈めた。
次の瞬間、そこに立っているのはふわりと柔らかな毛並みに包まれた、雌の白狐。
フーリェンは無言のまま姿見の前に立ち、静かに自分を見つめた。
尖った耳、細い首筋、そして淡く光を帯びた瞳。その姿は、彼が時折使うもう一つの「顔」だった。
ゆっくりと息を吐き出しながら、彼女はわずかに口元を緩めてみる。鏡の中に映る自分は、ぎこちなく眉をひそめている。
「……変わらないな」
視線をずらし、手元の小箱を開ける。中から銀細工の紋章を取り出す。それは、護衛である証。そして、どんな姿であっても、自分が「そこに属している」証明。偵察や遠方への任務に行く際につけるそれは、護衛に着任したときにルカから始めてもらったプレゼントだった。紐を首に通し、胸元に紋章をそっと収める。最後に灰色の外套を肩に羽織ると、その姿はすっかり街娘のように見えた。くるりとその場で一回りして、確かめる。うん、完璧だ。
扉を開けて、そっと外に出る。
夜の王宮は静まり返っていた。人気のない回廊に、靴音を立てないよう慎重に歩を進める。壁の隅に隠れるように身を滑らせながら、巡回兵の視界を避け、風のように抜けていく。
やがて、石畳が外気にさらされ、冷えた空気に変わったころ、フーリェンは目的の門へと辿り着いた。南門の前には、槍を携えた兵士の姿がある。白の髪を風にたなびかせ、闇に紛れるように静かに立っている兄へと静かに近づいていく。
フーリェンの気配に気づいたジンリェンは、視線だけをわずかに彼女へと向けた。言葉は交わさない。無言のまま手を伸ばし、ゆっくりと門を開ける。重たい扉が軋みを立てて開かれると、夜の王都の風がふたりの間を吹き抜けていく。
フーリェンは足を止めない。一瞬だけ振り返り、その瞳に静かな感謝を灯してから、ふたたび前を向く。
風に揺れる外套を翻し、街の灯りへと歩み出す。その背中を、ジンリェンの視線が追う。ただ、弟の背が見えなくなるまで。
(後日談)
王宮の獣護-日常- ep.6 酒と昔話




