花冠
夜風がさらりと灰銀の髪を掬い上げて去っていく。
堤灯の光りが遠く瞬く一角。そこだけが、ぽつりと別の時を刻んでいた。
南門からほど近い古びた菓子屋の屋根上。
傾いた煙突の脇。積まれた木箱を背にして、ひとりの狼が座っていた。手にした串をのんびりと口に運びながら、シュアンランはどこか夢見心地の眼差しを空へと向けていた。視界の隅に写る黄色の花弁に、思わず苦笑が漏れる。
頭には街中で出くわした兵士たちに半ば強制的に乗せられた花冠。軽口ひとつで断れず、そのまま押し付けられたものだったが、時間が経てばそれも悪くないと思えてくる。
「……まったく、似合わんって言ったのに」
誰に言うでもなく呟いて、串をひと噛みする。口の中に広がる甘辛い味。それすらも、今夜の浮ついた空気に馴染んでいた。
この場所は巡回中に目をつけて、住人に事情を話して許可を得た“とっておき”。中心からは離れているが、王都を見渡すには絶好の位置にあるそこは、今日という日にはぴったりの場所だった。
かさかさと耳元で花が揺れる。心地よいその音に耳を傾けていれば、自然とある夏の日の記憶が、頭の中に浮かび上がってきた。
**
訓練場の片隅。かさかさと揺れる緑の音が聞こえるその場所で、自分は”彼“と並んで木陰に座っていた。
暑い日だった。手に持つ水筒の水がぬるくて、喉に沁みたのを覚えている。
「……なんか、今日の動き、重くない?」
短く、要点だけを突いたいつもの調子。
「あー……暑いからかな。なんか調子乗らない」
そう中途半端に返事をして隣を見れば、フーリェンは汗で濡れた前髪をかき上げながら、ぼんやりと水を口に含んでいた。
見慣れた仕草だったのに――なぜかそのときだけ、妙に目が離せなかった。
光に透ける横顔。
まだ少年の面影を残すその顔に、けれど凛とした影が落ちていて。一言では表せない、その静けさの奥にある何かが、ふと胸を締めつけた。
「……おまえの、そういうとこ、ずるい」
思わず出た言葉は、想定外の形だった。
「なにが?」
なんの脈絡もない言葉。
不思議そうにこちらを覗き込む琥珀の目。水筒から滴り落ちた雫が、膝を濡らしていた。
そこで止まればよかったものを。いつもならぐっと胸の奥に押し込んでしまえたそれを、その時は止めることができなかった。
「好きだよ」
乾いた風が吹いた。
誰もいない訓練場の片隅に、その言葉だけが落ちた。
フーリェンは面食らったように瞬きをしていた。あいつには珍しいくらい、目に見えて動揺していた。
今でも思い出せる。あの日の草木の音と、風と、沈黙の重さ。
口をついて出てしまった言葉。伝える気など、毛ほどもなかった。しかし一度言ってしまった以上、もう後には引けなくて。
だから割り切ることにした。
以来ことあるごとに「好きだ」と口にしてきた。訓練の後、任務の前。時には剣を交わした直後の息の上がったままの声で。
「好きだよ、フー」
「……また?」
「うん」
「……そう」
そう答えるたびに、フーリェンはいつも困ったような顔をした。照れるでも怒るでもなく――ただ、どうしたらいいのか分からないという目をする。
その表情が、可笑しくて、少し哀しくて。
それでも、言うのをやめなかった。
そんな調子で一年がたったある日。訓練終わりの、誰もいない兵舎の裏手で、彼はふいに口を開いた。
「……僕、男か女かも……自分でも、よくわかんない。変だよね。双子なのに」
言葉は葉の音に消えてしまうほど小さかった。
「この姿、保てているのも……ジンがそばにいてくれるからで。もし、ジンがいなくなったらどうなるか……正直、自分でも不安で仕方ない」
目を逸らすように向けられたその横顔は、いつもと変わらず無表情だった。でも、指先が微かに震えていた。
「そんなの関係ない。俺は、どんなお前でも好きだ」
もっと言い方はあったはずだ。だけど出てきたのはそれだけだった。それでも、そのときフーリェンは初めて、本当に困ったように目を伏せた。
それから自分たちの関係は少しずつ変わっていった。
ふたりで出かけることが増えた。対照的に、ジンリェンに詳細を言うことは減った。
子供の時のようにじゃれ合うこともあれば、そうでない時間もできた。
気づけば隣にいることが当たり前になった。
『仲がいいな』と、兵士たちは言う。言うつもりはない。知られたいとも思わない。
だというのに、何故か王子たちにはすぐにばれた。そんなに分かりやすいのだろうか。セオドア様にはよく遊ばれる。
それでも。
ジンリェンという絶対的な『兄』がある中で、隣に来てくれるだけで嬉しかった。
嬉しかったのだ。
**
「……そろそろか」
回想に耽っていると、かさかさとまた耳元で花が揺れた。
その時だった。風ではない。足音でもない。でも気配が、確かにあった。
ちらりと横へと視線を向ける。淡い月明かりの中、すっと影が立っている。
灰色の外套に、首元には銀のタグ。白い狐耳が、風に揺れていた。
「フー」
フーリェンは何も言わなかった。ただ屋根の端に静かに降り立ち、じっとこちらを見下ろしていた。その姿にゆっくりと手にした串を下ろし、唇の端を上げる。
「早かったな」
そう言えば、フーリェンは僅かに目を細めた。返答はない。
それでもシュアンランは気にしなかった。
風がまたひとつ吹き抜け、彼女の肩を覆う外套を優しく撫でていった。
思わず、じっと見つめてしまう。
それは、久しぶりに見る姿だった。
繊細な輪郭。夜の帳に溶け込むような白い髪。仄かに紅を差したような唇。いや、それは錯覚かもしれないが――。見れば見るほど、胸の奥がざわついた。
言葉にすれば壊れてしまいそうなもの。手を伸ばせば、逃げられてしまうかもしれないもの。
だからこそ、先の言葉が出てこなかった。
「そんなに、見ないでよ」
聞き逃してしまいそうな程、小さな声だった。
「なんで……そっちで来た?」
責めているわけではない。ただ、心の底から気になったのだ。
フーリェンは少しだけ間を置いてから、屋根の縁にそっと腰を下ろした。
「……なんとなく」
それだけを言って、黙り込む。
シュアンランは立ち上がると、少しだけ距離を取ってフーリェンの隣へと腰を下ろした。そうして視線を月に向けかけたところで、隣からぽつりと声が落ちた。
「着替えて、こなかったの?」
その言葉にふと、自分の服に目を落とす。そこにあるのは、いつもの灰色の隊服。王子の護衛としての、顔。
「……ああ、そういえば」
相瀬の約束に気を取られて、服のことなどすっかり忘れてしまっていた。
フーリェンが女狐の姿で、しかも街娘の服に身を包んで現れた理由がようやく分かった。
今夜は、そういう夜なのだ。
気を抜く日。直属護衛ではなく、ただの「シュアンラン」でいることを、許される夜。それなのに、自分はまだ鎧を脱げていない。そう思うと、なんだか少し、照れくさくなった。
「着替えてきた方がいいか?」
そう尋ねると、フーリェンは首を横に振った。
「別に、いいよ。見慣れてるし」
やや素っ気ない言葉ではあったが、彼女の横顔に浮かんだ小さな緩みをシュアンランは見逃さなかった。
不意に、月明かりが遮られる。フーリェンが身を乗り出したのだ。
細い指先が自身の頭にそっと伸びる。そして、優しく丁寧に。頭に乗っていた花冠が離れていく。
フーリェンは何も言わず、そのままそれを自身の頭へと被せた。逆光の間から覗いたその顔は、どこか楽しげで。
けれど、それだけでは終わらなかった。
彼女は外套の内側に手を差し入れると、花冠を一つ取り出した。それは、先ほどまで自分の頭に乗っていたものよりも大きく、より丁寧に編まれた造りだった。
それだけで、それが予め用意されていたものだとすぐに気がついた。
ふわりと、頭の上に花冠が乗せられる。白い花弁がかさかさと揺れる。頬に触れた指先の熱に、鼓動が跳ねた。
「……こっちの方が、似合う」
そう呟いたフーリェンの声は相変わらず小さかったが、その顔はどこか満足気に笑っていた。
交換された意味。それがただの「気まぐれ」ではないことくらい、分かる。昔の彼女なら、何も言わずに立ち去っていたかもしれない。でも今は、こうして自分で選んだものを渡してくれるようになった。
その変化が、何よりも嬉しかった。
「ありがとな」
そう言うと、フーリェンはふいと目を逸らしてしまった。その仕草すら、愛しくてたまらなかった。




