演武候補
西日が王宮の回廊を金色に染めている。その控えめな光の下をフーリェンは静かに歩いていた。見回りも終わりを迎え、巡るべき区画は残りわずか。
そんな穏やかな王宮の空気の中に、彼の思考はどこか遠くを漂っていた。
侵入者の件、第七地区との繋がりの可能性。
何も起きていない表向きの静けさが、かえって不気味に感じられた。
その片隅で――
(……まさか、今年の演武も選ばれるとか、ないよね)
心の奥底から、ひょいと浮かんだ一抹の不安が、思考をかすめていく。
王都中央の大広場で行われた展示演武。民衆の視線。無数の歓声。あのざわめきの中、静かに精神をすり減らしていた記憶が蘇る。
今年はきっと、別の誰かが選ばれる。
そう思いたいが、あまり自信はない。
「……見回り完了」
引き継ぎの兵に報告を終えると、フーリェンは小さく溜息をつきながら自室へと歩を進めたのであった。
部屋はほんの少し、埃の匂いがした。砦へ出向していた間侍女たちが空気を入れ替えてくれていたはずなのに、どこかどんよりとしている。
机の上には山積みの書類。軍からの定期報告、資材の使用記録、医務室からの処置確認票……。届いた荷に手は付けられていない。
それらを手際よく仕分け、未処理の書類を上に揃え直す。
今夜のうちに半分は終わらせる。そう意気込んで羽根ペンを手に取ろうとした、その時だった。
「失礼します」
ノックと同時に、ひょこりと兵士が姿を現した。どこか落ち着きのない様子で自分を見つめてくる。
「……どうした?」
「祭事担当から、急ぎの書簡をお届けに参りました」
手渡された封筒は、やけに立派だった。薄い金の縁飾り、真紅の印蝋には祭事監督官の紋。まるで自分の心を見透かしたような絶妙なタイミングに、フーリェンは眉を寄せた。渋々封を切り、書状に目を走らせる。
数枚にまとめられた文書の一番上に見えたのは、【展示演武候補者】の文字。
数秒の沈黙ののち、フーリェンの手がピクリと動いた。僅かに顔を引き攣らせ、何とか最後の行まで読み進める
《今年の展示演武において、以下の人物を候補として選出したく、事前にご意向を――》
そっと書状を封筒に戻す。何も見ていない。読んでいない。そう心の中で呟きながら、そわりと尾を揺らす。
乾いた風が、窓の隙間からひゅうと吹き込んだ。数日前までいた砦の、白い石壁と澄んだ空気。急に、あの冷たさが恋しくなる。
封筒を書類の山に紛れ込ませ、フーリェンは何事もなかったように椅子に深く座り込んだ。
候補ならば断れる余地はあるはずだ。
思わず視線が天井へと泳ぐ。
(きっと、あるはず……断る理由……体調不良? 任務? 戦地に赴いたばかりで休養が必要?)
頭の中で、次々と浮かんでは却下されていく言い訳候補たち。
(……最悪の場合は、姿を消す)
本気でそう考え始めた時だった。
「おーいフー、入るぞ」
扉の外から、朗らかで間延びした声が響いた。返事をするより早く、再び扉が開かれる。
「ちょっと顔見に来たら……噂聞いちまった。展示演武に選ばれたって?」
顔を覗かせたのはランシーだった。こちらの心情など毛ほども知らぬまま、勝手知ったる様子で部屋に入ってくる。
フーリェンは顔も上げず、ただ低く呟いた。
「……なんで、それを」
「王宮内に噂が流れるのなんて早いもんだろ。しかもお前、去年の演武で評判よかったじゃねぇか」
フーリェンは無言で書類の山に視線を戻した。見なかったことにしようとしていた封筒が、より鮮やかに視界に入り込んでくる。
「まあまあ。そんな難しい顔すんなって。演武だろ?剣でも槍でも、好きに見せつけてやればいいじゃないか」
「……あんなの、やりたい奴がやればいいじゃないか」
「でも祭りだぞ? 若者のための祭り。華が必要なんだって」
「僕には、その役は向いていない」
「そうかね。だけど、お前が剣を振るうとさ――なんていうか、場がしまるっていうか、重みがあるっていうか……無言の圧、があるだろ」
「それ、褒めてるの?」
「もちろん」
肩をすくめる彼の笑顔は、いつもの軽さそのままに、絶妙なラインを突いてくる。
「ま、俺は今回は出ないから気楽だけどな。第四軍の兵士たちは、全員お祭りに張り付けられるって話だし。お前は隊長だし、花形だし……逃げ道ねぇな」
「……他に言いたいことは」
「おう、ひとつだけ」
ランシーはくいと身を乗り出して、まるで秘め事を囁くように口を開いた。
「今年もまた、若い娘たちが祭りに乗じて“第二軍隊長”の姿を見てキャーキャー言うと思うとさ――」
「帰れ」
「へいへい、邪魔したな」
朗らかに手を振り、悪びれもせず部屋を出て行く獅子の男。
残されたフーリェンは机に肘を突き、静かに額を押さえたのだった。




