静穏
私室の扉が音もなく閉じられた。
窓の外に見えるのは、兵士たちが汗水を垂らす訓練場。けれどこの部屋の中だけは、どこよりも静かで、どこよりも遠い場所のように感じられた。
灯りはつけられていない。
窓から差し込む薄明かりだけが、ほのかに室内を照らしていた。重い空気がしばし漂い、その中でフーリェンはゆっくりと動き出す。
付けていた手袋を取り、隊服の留め具を外す。肩の包帯は湯浴みの時に解いたきり。ただ、衣擦れの音だけが、妙に大きく響いた。
淡く揺れる影の中。ふと壁際に置かれた大きな姿見――帰還前のまま、誰にも触れられていなかった鏡に、目に留まった。
いつぶりだろう、と思う。
ゆるく前に歩を進める。姿見の中に映る自分の姿が徐々に輪郭を持って現れてくる。血の気の薄い肌、整えられた白の髪、表情を宿すことのない冷たい眼差し。
それは確かに、自分だった。何も変わらない。砦で幾度も剣と槍を振るい、炎に巻かれ、獣の咆哮に晒され、血を流した。だが、鏡の中のフーリェンは、まるで何事もなかったかのようにそこに立っている。
――変わっていない。
その事実に、ひどく安心したような、同時に、置いてきた何かに胸を締めつけられるような感覚が入り混じる。
鏡越しに視線を落とす。
肩口の傷痕。確かに残る爪跡が、砦での記憶を呼び起こす。醜く変容した化け物。そして、突然姿を変えたグレゴリウス。数年ぶりに再会した、兵士たちの冗談交じりの声。焦げた木の匂い。小さな第五王子の、無邪気な笑顔。
思い返すたび、喉の奥に重いものが引っかかるような気がした。それでも、フーリェンは表情を変えず、静かに瞼を伏せた。
――戦いは、まだ終わっていない。
指先が、知らず知らずのうちに胸元の肌に触れる。
そこにあるのは、大きな火傷の痕。
ずっと昔、奴隷として扱われていた頃――首輪と共に刻まれた焼き印。それを火で焼き潰して消そうとした痕。痛みはない。けれど、そこに触れるたび、かすかな熱が胸の奥から蘇るような気がした。
変わっていないようで、どこかが少しだけ違っている気もした。けれど、それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。
フーリェンは静かに衣をたたみ、窓辺に歩み寄る。夜風が、薄く開かれた窓の隙間から入り込んできて、白の髪が僅かになびく。
その時……コン、コン、と控えめなノックの音が、思考の淵を静かに揺らした。
「フー。いるか?」
低く押し殺した声が、扉越しに届く。その声に、フーリェンは軽く耳を動かした。クローゼットから替えの上衣を急いで取り、扉の方を向く。
「……すぐ開ける」
乱雑に上衣を肩に引っ掛け、傷が見えぬよう正す。扉を開けた先にいたのは、ジンリェンだった。
月灯りに照らされたその顔は、自分の顔を見てどこか安堵の色が浮かんでいた。自分と同じ白の隊服が、見回りの途中であることを物語っている。
「……帰還の報告を聞いて、見回りのついでに来てみた」
ジンリェンの視線が、フーリェンの顔に一瞬だけとどまる。
「……顔色は、悪くないな」
そう言い残して立ち去ろうとした彼の足が、ふと止まった。
「部屋、入ってもいいか」
その言葉に、フーリェンはわずかに眉を寄せた。しかしすぐに無言で身を引くと、静かに兄を部屋へと招き入れたのだった。




