決戦の地と定む
フーリェンは深く息をつくと、静かに膝をついた。そのままゆっくりと地に伏した異形の背へと視線を向ける。巨体はぴくりとも動かない。
改めて近くで見るその姿は、やはり人のそれとはかけ離れていた。歪な骨格と瘴気の残影を纏った肉。そして異常な再生力。
(僕の能力とは似ているようで違う……でも……)
頭の片隅で答えを探る傍らで、白い隊服は鮮血に染まり、痛みが波紋のように広がっていく。
もう一度大きく息を吸いこんで立ち上がろうとしたその時、息を切らした足音が通路の向こうから近づいてきた。
「おいフー! 大丈夫か⁉」
そう言いながら駆け足に崩れた壁穴から広間へと飛び込んだシュアンランの赤い瞳が、すぐにフーリェンの肩を捉えた。彼に続くように、砦の奥にいた兵士たちも様子を見に集まる。
一人の若い兵士が駆け寄ろうとしたが、フーリェンは片手を上げてそれを制した。痛みで顔をしかめながらも、鋭い眼差しを隣の狼男へと向ける。
「……シュアン、傷口を、氷で塞いでほしい」
震える声にシュアンランは一瞬躊躇ったが、槍を握るフーリェンの手に力が籠っているのを見ると、やがて静かに頷いた。パチパチと淡い蒼氷の結晶が生まれる。冷気を纏った手のひらで、彼はそっとフーリェンの肩に触れた。
冷気が傷口を包み込み、破れた血管を凍らせて痛みを和らげていく。
「少しは楽になるか?」
心配の滲むその声に、フーリェンは小さく頷いた。
そうして赤に染まっていた肩口が氷の薄膜でしっかりと覆われた頃、二人は広間をあとにした。
「そういえば、東はどうやって抑えたの」
隣を歩く狼男へと問いかければ、返ってきた言葉はあまりにもあっさりとした言葉だった。
「入り口ごと氷漬けにして塞いだ。通路を丸ごと凍らせれば、入ってこれないだろ?」
「……さすが」
どうしてこの男はこうも何食わぬ顔で言いのけるのだろうか。そんな、呆れとも感心ともつかない気持ちが胸の奥に落ちる。しかしそれを顔に出すことはせず、フーリェンはただ首を振って前を見据えた。
砦の最奥へと続く道。二人の背後――東の入り口は、凍てつく氷壁と数体の氷像たちが、まるで戦場の記憶のように薄青の光を放っていたのだった。
早足に訓練場を囲む回廊を抜け、地下へと続く階段を駆け下りる。そうして見えた重厚な扉を勢いよく押し開ける。中では金の髪を無造作に結い上げた女が、次々に書き込みの増える戦況図へと鋭く視線を巡らせていた。
女——ヘラは扉の開く音に顔を上げると、戦火の匂いを纏った二人の姿を前に、手にしていたペンを卓上へと放った。そんな彼女へと一礼して二人は近づく。先に口を開いたのはシュアンランだった。
「東の侵入経路は完全に封鎖。最終防衛ラインへと到達した敵兵はフーリェンが討ち取りました」
「よくやった。シュアンラン、フーリェン」
ヘラはその報告に深く頷くと、視線を西側の配置図へと向けた。
「西の防衛線は依然として厳しい状況だ」
「こちらの予想以上に、敵兵の能力持ちが多いようです。後方支援も限界に近いかと」
シュアンランの言葉にヘラはしばらく無言で手元の地図を見つめると、思考を巡らせるように額へと手をついた。そうしてこつこつと指先で西の配置の上を叩きながら、やがて彼女は再び視線を上げた。
「シュアンラン、フーリェン。砦内に残る兵士を連れて前線へ向かいなさい。最終防衛ラインはこちらで支える」
「「御意」」
片膝をついた瞬間、石床の冷たさが布越しに伝わった。頭を垂れながら、フーリェンは己の呼吸がわずかに浅くなっているのを自覚した。敵の狙いは自分。姿を敵前に晒すということは、敵の牙を自ら迎え入れるに等しい――それでも。
「フェルディナのために。女王に勝利を」
彼の目に、迷いはなかった。ヘラはゆっくりと立ち上がると力強く言葉を返す。
「砦の未来はお前たちに託す。オルカからの客人に、その力を存分に分からせてやれ」
二人は一礼すると静かに踵を返した。お互いに視線を交わし、頷き合う。灰銀の尾が揺れる。白の耳が傾く。
敵の標的として。仲間の旗印として。
この戦に終止符を打つために。白狐と灰銀の狼は、武器を手に戦火の渦中へと向かうのであった。
――――
砦の中継地点――戦場の要として機能する、石造りの一室。
壁際には血と泥に汚れた地図と伝令盤が並び、無造作に打ち付けられた釘には、刻一刻と書き換えられる戦況報告が下がっている。室内には負傷兵を乗せた簡易担架がいくつも並び、医療班の兵士たちが声を張り上げながら懸命に応急処置に当たっていた。呻き声と命令、金属音が入り混じり、空気は張り詰めている。
その喧騒の只中で、ルカは一人静かに卓に向かっていた。眉間には深い皺が刻まれており、戦況の苛烈さを如実に物語っている。背筋は崩さず、王子としての威厳を保ってはいるものの、卓に置かれた指先はわずかに震えていた。
「東側、シュアンランによる氷結封鎖が成功しました! 侵入経路はすべて遮断されています!」
「突破を試みた敵兵もフーリェンによって討伐済みとの報せです!」
相次ぐ報告にルカは目を見開くと、胸の奥に溜め込んでいた息を静かに吐き出した。
「二人とも……本当に、よく頑張ってくれた」
その言葉に応えるように、張り詰めていた緊張が安堵へと形を変える。しかし、それは束の間のことだった。
「――殿下!」
血に濡れた装甲を軋ませ、別の伝令兵が駆け込んでくる。青ざめた表情は隠しきれず、声音には切迫した焦りが滲んでいた。
「西側、防衛線が大きく後退しています! 敵の動きが変則化し、前衛の壁が一部崩されました!」
彼は無言で卓上の地図へと視線を落とした。
「……このままでは押し切られるな」
低く呟いたその直後、扉が開かれる。腕には梟の意匠――女王ヘラ直属の伝令である。
「ルカ殿下、女王陛下より伝令です」
その言葉にルカは即座に背筋を正すと、差し出された巻紙を一読した。
沈黙が落ちる。室内にいる兵士たちの視線が、一斉に彼へと集まった。そんな彼らの無言の問いかけに、
ルカは感情を押し隠すように表情を整えると、静かに口を開いた。
「これより、砦内に残る全ての兵士に告ぐ。動ける者は武器を持ち、中央広間へ」
その場にいた者たちは思わず息を呑み、次の言葉を待つ。
「各部隊へ伝令を。——女王の命令だ」
「「はっ!」」
短く鋭い返答とともに、兵士たちが一斉に駆け出していく。その背を見送りながら、ルカは巻紙を握る手に力を込めたのだった。




