進軍
北の砦・最終防衛ライン
最奥の回廊には、北の冷気すら届かないような沈黙が満ちていた。フーリェンは背後の壁に寄りかかり、目を閉じ、周囲の空気を探っていた。隊服の裾がわずかに揺れ、足元には布を巻いた長槍が静かに横たわっている。
その時――異様な気配が、風に混じってフーリェンに届いた。それは音でも匂いでもない。ましてや目に見えるものではない。ただ、肌を撫でる空気の歪みのような、感覚の奥に引っかかる“異物”。
「……来るな」
静かに目を開く。琥珀色の瞳が、薄明かりの中で鋭く光る。直後、伝令が息を切らしながら姿を現した。肩で呼吸しつつ、すぐに報告の言葉を吐く。
「報告ッ! 東側防衛線、突破されました! 一名、正体不明の獣人がこちらへ向かっています!」
「……他とは動きが違います。シュアンラン殿の氷の壁をも突破した模様…!」
「東側の状況は?」
「他の残党はシュアンラン殿が足止めしています…!こちらの負傷者はなし!」
フーリェンは言葉少なに頷くと壁から体を離した。足元の長槍を軽やかに背負い直し、代わりに腰の鞘から短剣を抜く。細身で鍛造の施された刃に、灯りの残滓がわずかに反射する。
「――あとは、頼む」
背後に控える数名の年若い兵たちへと、フーリェンは一言だけ告げた。
兵士たちが頷き、各自の配置を固め直す。その姿に背を向けるようにして、フーリェンは静かに歩みを進めた。回廊の奥へ。異形の気配が濃くなる方向へ。
石造りの通路は細く、複雑に折れ曲がっている。誰かの足音が聞こえるわけではない。だが確かに、そこに“いる”という感覚だけが、重く伝わってくる。呼吸を静め、短剣を逆手に構える。白の隊服が北の風を孕んでわずかに揺れた。思えば、こんなふうに“自分のためだけに向かってくる敵”と対峙するのは、初めてかもしれなかった。けれど、迷いはない。
自分がここを護ると決めたのだ。
異形の気配が、徐々に近づいてくる。次の角を曲がった先――その瞬間が、確実に迫っていた。
――――
北の闇がまだ残る砦の外縁、緩やかな丘陵の上に、一人の男が馬上から戦場を見下ろしていた。漆黒の軍衣に身を包むその男――グレゴリウス。先日、使者としてフェルディナの南の大地を踏んだこの男の正体は、オルカの一貴族にして、冷徹無慈悲と名高い存在である。彼の周囲には数人の兵が控えていたが、誰も言葉を発する者はいない。砦西側では、すでに激しい攻防が始まっていた。火と氷、水と風が入り混じる異能の衝突。その光がまるで空に花を咲かせるように瞬く。
「グレゴリウス卿――伝令です」
「言え」
「東より侵入した“牙”のひとりが、目標への接近に成功したとのこと」
その言葉に、グレゴリウスは目を細めた。闇夜の中、その瞳は氷のような光を湛える。
「そうか……ついに、届いたか」
重々しく息を吐くと、彼はゆっくりと視線を落とした。手袋越しに顎に指を添える。
「変化の能力。それさえ手に入れば、我々の試みは最終段階へと進める……!」
グレゴリウスはまるで独り言のように、誰にも届かない声で呟く。
「―どんな姿であれ、確実に“手に入れろ”」
視線を再び砦へ。戦火の灯りが、砦の天辺に微かに浮かび上がる尖塔を照らしていた。グレゴリウスはしばし、砦の方角を見つめ続けていた。西から吹く冷たい風が、外套の裾をゆっくりとはためかせる。
やがて、静かに馬の手綱を引いた。
「――私も出よう」
その言葉に、周囲の兵たちが一斉に彼の背後に列をなす。丘を下りながら、彼は淡々と命じていく。
「副官に伝えろ。後詰部隊を三手に分け、東からの突破口を広げつつ、砦南西に展開させろ。私の到着と同時に、内と外から圧をかける」
「はっ」
伝令が駆け出すと、グレゴリウスは独りごちるように呟いた。
「焦るな……急くな……だが、確実に獲れ。今回の目的は“狐”だ。他の命は、いくらでも代わりがきく」
馬の蹄が雪を踏みしめ、丘を降りていく。彼の後ろには、精鋭の獣人部隊――異能を持ち、選りすぐられた“牙”たちが静かに従っていた。誰も声を発さず、ただ整然と、無機質な沈黙の中で進軍を続ける。
戦の嵐は、すでに砦を飲み込み始めている。
北風が吹き抜ける中、グレゴリウスの唇が冷たく歪んだ。




