第一章:兄弟
【登場人物】
ジンリェン…愛称はジン。フーリェンの双子の兄。第一王子アルフォンスの直属護衛を務める。
シュアン…本名はシュアンラン。戦場の最前線へと遠征中。ジンのよきライバルであり、フーとは…?
薄雲がかかり、陽の光が少しだけ和らいだ午後。
王都北門近くの裏通りにある小さな宿の前に、フーリェンは静かに立っていた。
休暇の宿に、とルカが手配させたこの宿は質素な木造りで古びてはいるが手入れは行き届いている。
鼻先をくすぐるのは、焚き火に似た、微かな焦げと温もりの匂い。間違いない。
コン、コン――
無言のまま扉を二度叩くと、すぐに中から返事があった。
「誰だ?」
その声に、懐かしさが滲む。
「……フーリェン」
ほんのわずか、声音が柔らかくなる。それでも表情は変わらず、ただ真っ直ぐにフーリェンは扉を見つめた。
扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、彼と同じ白髪に、琥珀色の瞳。しなやかな体躯に長身、端正な面差し。
フーリェンの双子の兄――ジンリェンだった。
「よく来たな、元気だったか?」
「……そっちこそ」
互いの言葉に、わずかな間が入る。だがその沈黙の中には、言葉よりも濃い時間が流れていた。
「入れよ。部屋は狭いが、火は入れてある」
フーリェンは小さく頷き、兄のあとについて部屋へと足を踏み入れた。中は簡素な作りだが、角には火鉢が置かれ、温かな気配が満ちている。武具の袋と数冊の地図が、机の上に広げられていた。
「休暇か?」
「そう。……ルカ様に命じられて」
「相変わらず素直じゃないな、お前は」
そう言うと、ジンリェンは笑った。フーリェンは黙って椅子に腰を下ろし、そっと視線を兄へ向ける。
「ジンは任務帰り?」
「ああ。お前と同じく、な。俺は東の砦から帰還したところだ。少し荒れてたぞ、向こうの情勢」
「西側も、きな臭い感じだったよ」
それに――
「……都にも、奴隷商が入っていた」
その一言に、ジンリェンの表情がわずかに陰った。
「報告したか?」
「……検討中」
「お前らしいな…」
小さく呟いてから、ジンリェンは椅子に戻った。
フーリェンは目を伏せた。
だが、その言葉にどこか安堵するような気配を滲ませたのを、ジンリェンは見逃さなかった。
「今日は、久しぶりにゆっくり話そう。明日は俺も休みをいただいている」
「……うん」
その一言が、何よりも確かな“再会”の証だった。火鉢の炎が、ふたりの間を柔らかく照らす。
王宮の影と戦場の緊張から、ほんのひととき解き放たれる時間。だがこの静けさの裏では、じわじわと動き始める陰謀があることを、2人はまだ知らない。
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火鉢にくべられた炭が、ぱちりと小さくはじける。
木造の壁に揺れる炎の影が、室内に静かな温もりを添えていた。
「……東は、獣の群れが移動してきててな。国境近くの村が何度か踏み荒らされた」
椅子に背を預けながら、ジンリェンがそう語る。その口ぶりは落ち着いていたが、装備に残る傷と煤の痕が任務の過酷さを物語っていた。
「第一軍の補給線が、一時寸断されたと聞いた」
「……ああ。だが今は回復している。俺が出向いたのは、あくまで火の種を摘むためだった。幸い、大規模な衝突には至らなかったよ」
フーリェンは黙って頷いた。
「そっちは、どうだった?」
「アドラの国境周辺。動きは慎重だった……けど、内密に人員を移している形跡があった」
「やっぱり、まだ完全に引いてはいないか」
ジンリェンの眉がわずかに寄る。
アドラ王国とは、先々代の時代から戦の絶えない。ヒューマンと獣人との共存を掲げるフェルディナとは異なり、アドラ王国ではヒューマンと獣人との間に埋められない格差社会が存在する。そんな隣国との衝突は近年増す一方であり、こうして定期的に牽制や偵察を行っていた。
「で、シュアンは?」
「……会ってないから分からないけど、戦場を一面凍らせたとは聞いた」
「ふっ……相変わらずだな。真面目すぎて損するタイプだ」
フーリェンの目が少しだけ細くなる。
「あまり無茶はしてくれるなとは思うけどな」
「それを言うなら、向こうも同じこと思ってると思うよ」
ジンリェンは小さく笑った。
「アイツ、氷の刃より冷静なくせに、お前のこととなるとすぐ沸騰しそうになるからな。一度会ってやれ。……きっと、そろそろ限界だぞ」
「……そう、だね」
「ああ、そうだとも」
兄弟の間に、穏やかな空気が流れる。
戦場と偵察、異なる任務に就くふたりだが、その絆は強く、深く結ばれている。
やがて、ジンリェンはふと立ち上がり、小窓から外を覗く。
「……王都も、油断できなくなってきた。目に見えないところで、少しずつ何かが変わってきている」
「うん…」
言葉を交わしながら、火鉢の中の炎がぱち、ぱちと音を立て続けていた。