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王宮の獣護   作者: 夜夢子
第2章

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諜報員

月も雲に隠れ、夜闇はまるで濃い墨を垂らしたように、砦を覆う。ひっそりとした裏中庭に続く通用路の暗がり。


その中を、静寂を裂くように複数の影がぬるりと動いていた。


「……目標を発見」


影のような動きで回廊をすり抜け、隊員の一人が足音を忍ばせて目標に接近する。その視線の先、通路の奥を一人歩く人物は、この砦に入ってまだ数日の新兵だった。北の国境沿いにある村から出稼ぎのために入隊したというその青年。年若く、痩せた体に不自然に馴染まない装備を身につけている。 


若者――サイは、周囲を確認して倉庫裏に潜り込もうとしていた。だが次の瞬間、黒布の腕が首元を掴み、瞬く間に地面に押し倒された。


「っ……! 離せッ!」

「声を上げれば、その首を切る」


冷たく静かな声。刃を突きつけられ、サイの体から一気に力が抜けた。すぐに他の梟隊員が合流し、装備の確認が始まる。そして、問題の“それ”が発見された。


封書の入った小さな筒――中には、北の砦の配置図と物資の備蓄量、見張りの交代時間などが記されていた。明らかに、巡回中の兵士が持つには不自然な内容だ。


「…連行する」


静かな声が回廊へと響く。拘束された青年は抵抗の余地もなく、男たちによって引きずられるように歩き出したのだった。


――――

地下尋問室。厚い石壁が音を吸い込むように沈黙している。灯された松明の炎が、椅子に縛られた青年の顔を揺らめかせていた。


サイは表情に怯えと諦念をにじませながら、ゆっくりと口を開いた。声はかすれていたが、虚勢の色はもうなかった。


「……俺はオルカの人間じゃない……ただの雇われだ。諜報の訓練を受けた民間の手配師に呼ばれて……報酬と引き換えに任務を受けただけだ」


対面に座る梟隊の隊員は、黙って頷くだけだった。言葉を促すより、沈黙のほうがよほど口を開かせる。


サイは続けた。


「指示されたのは二つ……砦内の部隊配置、物資の流れ、警備の薄い時間帯……そういう情報を定期的に伝達すること。それから……」


視線が下がる。


「“フーリェン”という護衛の所在を特定して報告しろ、と」

「なぜフーリェンを?」

「知らない。ただ“必ず目視で居場所を確認しろ”と念を押された。……会話を仕掛けたり、接触するなとも言われた。俺にできるのは、伝えることだけだ」


梟隊の隊員が、静かに手元の報告書に何かを書き加える。


「報告先は?」

「アスランとの国境近くの森に、仲介の隠れ拠点がある。使い鳥を飛ばせば数時間で届く仕組みになってる。中継係が受け取った情報を……どこかの本隊に送ってるはずだ」

「フーリェンの所在だけを狙った諜報任務……そのために、わざわざ砦に潜り込ませたのか」

「直ちに女王陛下へ報告だ」

「「了解」」


影のような気配が、再び闇に溶けて消えていく。そして石室には、サイのかすかな呼吸音だけが残る。若き密偵の告白が、北の砦をさらに深い緊張へと引き込んでいくのだった。


――――

砦の最上階。石壁に囲まれた重苦しい空間に、再び主要な面々が集まっていた。机上には、サイが所持していた密書の写し、尋問の記録が並んでいる。彼の証言から南がフーリェンの居場所を突き止めようとしていることが明らかとなった。そして、これが「砦そのものが攻撃対象となる」という揺るぎない証左だった。


「つまり、これで“待つ理由”がなくなったということですね」


ベルトランが腕を組み、低く呟く。


「敵が来る。――だけど、こちらもその動きを逆に利用できますね」

「この密書は、まだ敵に送られていない。ならば、“こちらに都合のいい情報”を載せて送り返す手もあるということ」


ルカの呟きにヘラは頷くと、さっと報告書を手に取った。彼女の言葉に、そばに控えていたワンジーが静かに問いかける。


「偽情報で、敵を誘導するのですか?」

「あぁ。たとえば……フーリェンは砦から移動予定である、とかな。」


地図の一角を指し、ヘラは続ける。


「敵が砦への正面突破を狙うなら、その前に陽動を行ってくるはず。その手を先に読み、罠を張る。――この密書を使って、逆に敵をこちらの手中に収める」


一同の視線がヘラへと集まる。その視線に彼女はわずかに微笑む。


「捕獲対象がまたどこかへ移動するとなれば、行方が眩むその前に、手中に収めたいだろう?」


そして女王は、その鋭い視線を一同へと向けた。


「諜報員には偽の情報を。使い鳥は今夜中に飛ばす。――みなの者、開戦だ」


砦の外では、吹雪の気配が近づいていた。女王の号令と同時に、防衛戦の準備が本格的に始まる。だがそれは、ただの守りではない――敵の狙いを利用し尽くすための“狩り”の準備だった。





――――

風雪を切り裂くように、黒鳥が空を翔けた。


その脚に括られた小さな筒――その中には砦へと送った諜報員からの一枚の紙が入っていた。


「狐、明朝、砦を出立。進路は南西の峡路。現状、砦西棟の兵力は再配置のため薄い。監視の交代は未明」


荒れ果てた戦場跡に仮設された指揮幕。その中心でグレゴリウスは密書を読み終えると、眉一つ動かさず目を細めた。


「……狐が、砦を離れる?」


口元に手を添え、思案するように沈黙する。雪の音だけが、静かに幕を叩いていく。


「砦西棟が手薄……突入口としては好都合だな。狐が移動するとなれば、守りの意識は外向きに傾く」

「……罠の可能性は?」

「だとしても、動く価値はある」


静かに立ち上がったグレゴリウスは、作戦盤へと視線を落とす。盤上に置かれた砦の模型。その西側に、彼は新たな印を置いた。


「未明、こちらの主力を西側へ展開させる。側面から砦内に突入し、混乱を誘え。――狐の捕縛はその直後だ」

「承知いたしました」


副官が頷き、作戦盤に手を伸ばしたとき――グレゴリウスはふとその手を止めさせた。


「……だが、念を入れよう」


その声に、幕内の空気が一瞬で張り詰める。彼の目はすでに別の一点を見ていた。砦の東端――朝日を迎える側。


「こちらからも突入させる。静かに、確実に。手練れの獣人だけを数名。それから、"アレ"もだ。気配を殺し、砦の奥へと入り込ませろ」

「陽動ですか?」

「いいや、“確認”だ」


グレゴリウスの声には、わずかに警戒が滲んでいた。


「この情報が真であるとは限らない。奴らが我々の動きを読んでいる可能性もある。西を囮にし、東から不意を突く策は……あちらも取り得る」

「東からの突入は、獣人斥候兵の精鋭数名で。目的は混乱の扇動と、狐の実際の位置の把握。戦闘は極力避けさせますか?」

「構わん。狐の確保が最優先だ」


グレゴリウスの口元がわずかに吊り上がった。


「西からは雷の如く踏み潰し、東からは影の牙を突き立てる。砦は必ず崩れる。……いや、崩してみせる」


雪は静かに降り続いていた。だがその純白は、まもなく血の色に染まることになる。


敵はまさに獣のように静かに、そして確実に動き出していた――。

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