東側
東の地平線から覗く淡い光も届かぬ砦の裏通路に、数名の影が雪を踏みしめて忍び寄っていた。彼らは敵将グレゴリウスによって数いる兵の中から選りすぐられた者。西側ではなく、東からの奇襲に回された手練れたちである。
「このまま通路を抜ければ、砦の中枢だ」
闇の中、犬獣人の一人が先を急ぐ。
「……寒いな」
最前の男が首をすくめた。その言葉に後続の者が揃って足を止める。
「こんなに冷え込んでいたか?」
彼らがその異変に気づいた時には、すでに遅かった。
風が止む。一瞬の静寂。直後、耳を裂く氷の咆哮が大気を満たした。
通路の奥――闇に溶け込んでいた灰銀の影が姿を現した。灰色の隊服を揺らし、赤く輝く双眸を敵に向ける狼の男。その手の内で氷が形を取り、太刀のように伸びていく。
「よく来たな」
言葉少なに放たれた氷の刃は、風を裂いて先頭の男に突き刺さった。反応する間もなく氷は地を這い、壁を登り、侵入者たちの足元を瞬時に奪っていく。
「クッ……氷だ、離れ――!」
叫びも凍りつく。通路全体が瞬く間に白銀に染まり、獣人兵たちは氷漬けの像と化した。
一人分の足音だけが氷に覆われた通路に反響する。シュアンランは氷霧の中をゆっくりと歩み出ると、口端を上げて笑みを浮かべた。
「……まさか当たるとはな」
彼が女王から託された密命は、“おそらく”という前置きがついた東の防衛。その言葉通り、数名の敵が東からも侵入してきた。
シュアンランは肩を回すようにして氷の霧を一息に払う。
その瞬間、氷霧の静寂を破るように再び空気が軋んだ。
凍結された先行隊の後を追うように、新たな敵影がなだれ込んでくる。殺気を振り散らすその姿にもはや隠密などという言葉はなく、完全な力押しの突撃だった。
しかしその先に立つ男の姿を認めた瞬間、彼らのその殺気も揺らぐ。
「フェルディナの氷ろ--」
言いかけた声が、凍気に呑まれて消えた。刹那、銀の閃光が敵兵たちの視界を覆い尽くした。
シュアンランは動いていた。片手に携えた氷の大太刀が敵兵の防具を砕き、反撃の隙さえ与えずに肉を切り裂いていく。
「甘いな」
短く吐かれた声とともに、氷の結晶が空中に舞う。敵兵の一人が跳躍して背後を取ろうとした瞬間、氷の礫が彼の足を容赦なく撃ち抜く。膝をついたところに大太刀が無言で振り下ろされた。
氷と斬撃の奔流が次々と敵を討ち、通路に呻き声が広がっていく。
だがその混乱の中、ひときわ異質な気配がひとつ、北風に混じって現れた。
気配を察知して振り返るよりも早く、通路の壁から“それ”が躍り出る。
全身を硬質な鱗で覆い、片目だけが異様に肥大化した異形の獣人。その動きは常軌を逸していた。氷の罠をすり抜けると、壁を蹴って天井に這い上がるようにして頭上を移動していく。
「――くっ!」
氷を飛ばすも、ひらりと躱される。異形の男は振り返ることもなく、天井伝いに砦の奥へと進んでいく。その方向は、最終防衛ライン――フーリェンのいる場所だった。
追おうと踏み出しかけるも、通路に残った数名の敵兵が最後の足掻きとばかりに剣を振りかざしてくる。
「行かせるわけには……!」
苛立ちを滲ませながら足を踏み鳴らす。氷柱が再び敵の足元を封じていく。
だが、その一瞬の遅れが致命だった。
振り返った先、異形の男の姿は視界から消えていた。
「シュアンラン!」
伝令を聞きつけてやってきた兵士たちに「問題ない」と低く返しながら、シュアンランは異形の消えた先、砦の中枢へと続く闇の中へと視線を向けた。
「東、掃討優先。最奥には……伝令を」




