第一章 都の風、微睡む午後
「……休暇を?」
フーリェンは、わずかに眉を寄せてルカを見つめた。いつもの無表情のままながら、はっきりとした困惑が読み取れる。
「うん。しばらく任務で辺境の地に行っていたんだ。たまには王都の空気でも吸ってくるといいよ」
窓辺に腰掛けて、報告書を読みながらルカはさらりと告げた。穏やかな午後の日差しが室内に差し込む中、その声には柔らかい余裕があった。
「ルカ様、僕はまだ――」
「だめだよ、フー。任務帰還直後の護衛に次の仕事を振るなんて、兄上たちの目もある。王宮の部屋で寝るより、王都の風のほうが骨を休めてくれるだろう?」
「……はい」
それでも納得しきれない様子のフーリェンに、ルカはふっと笑みを漏らすと、机の引き出しから小さな包みを取り出して手渡した。
「じゃあ、これは“お使い”だ。"梟の目"に渡してきてくれ。中には手紙が入っている」
「……お使い、でございますか?」
「そうとも。まさか、命令に背いたりはしないだろう?」
肩をすくめて小悪魔のように笑うルカに、フーリェンは沈黙のまま数秒を置き、しぶしぶと頭を下げる。
「……承知しました」
「うん。ついでに街で何か甘いものでも食べておいで。“護衛”ではなく、“民”としてね」
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着替えを済ませ、王宮を出たフーリェンは灰色の軽装を身に纏っていた。フードを深くかぶり、目立たぬようにしていても、透き通るような白髪と琥珀の瞳は風の中で静かに存在を主張する。
王都は今日も活気にあふれていた。街路樹の新芽が揺れ、市場からは焼き菓子と果物の香りが漂ってくる。
フーリェンは人ごみの中を、ゆっくりと歩いた。
懐の中に収めた包みの重みが、“任務中”の仮面をなんとか保たせている。
休暇……ではなく、お使い。自分にそう言い聞かせるように、街の雑踏を抜け、指示された裏通りへ向かう。
「……いらっしゃい。あら、懐かしいお顔じゃないの」
奥から現れたのは、片目に眼帯をつけた年配の女性。
「……主より、お届け物を」
「まったく。あの坊っちゃん、最近まったく顔を見せないと思っていたところよ。ま、いいわ。もちろん、お茶くらい飲んでいくわよね?フーちゃん?」
奥の窓辺の席へ通され、温かな香りのお茶が置かれる。白銀の髪を少し払い、フーリェンは静かに目を伏せた。窓の外では、子どもたちが笑い、鳥が囀り、光が揺れていた。どこか、それがほんの少しだけ、懐かしくもあった。
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静けさに満ちた書店の奥、窓辺の席。
木の香りに包まれたこの店は、ルカが時折”坊ちゃん”として訪れるお気に入りの場所。
フーリェンは出された茶を口に運びながら、周囲に意識を巡らせていた。書棚の隙間には古びた羊皮紙、天井の梁には小さなホコリ、軋む床の音に合わせて店主の足音が近づいては遠ざかる。その全てが、平穏そのものを装っている。
落ち着かない。腰の短剣にそっと指を触れながら、フーリェンは外の通りに視線を移した。通行人の中に目立った人物はいない――はずだったが、一組のグループの様子が目に留まる。通りの向こう、露店の陰。何かをしきりに引っ張っている、粗野な男たち。
フーリェンは静かに目を閉じると、ぐっと両の眼に力を込めた。途端にじんわりと暖かいものが両の目を覆う感覚にとらわれる。その温かさを残したまま、フーリェンは再び目線を男たちの方へと向けると、その”目”で男たちの引っ張る何かを凝視した。
「……子ども…?」
そこに見えたのはやせ細った小柄な獣人の子どもだった。よく見ると片耳が千切れ、手首には鉄の枷をはめられている。ちらりと見えた子どもの目は、――かつて自分がそうであったように、売られる側の目をしていた。フーリェンは静かに席を立つと店主に軽く会釈をし、静かに店を出た。
「あらあら、折角の休暇も台無しね。無理しないでいってらっしゃいな」
通りの裏へ回り込むと、男たちは人気のない裏路地で値踏みの真っ最中だった。
「悪いな坊主、まだ毛並みはいい。山向こうの領にでも流せば高く売れるぜ」
「嫌だ……離して……!」
子供の悲鳴が小さく響いた瞬間、その腕を掴んでいた男の手元にするりと投げられた石が当たった。
「いった……誰だ!」
振り返った男たちの視線の先。深くフードを被り、通りの影に立つ細身の獣人。フーリェンは、怪訝な顔をする男たちのもとへ何も言わずに近づいていく。
「おい、テメェ……通りすがりにしちゃ物騒だな?」
「……その手を離せ」
低く、静かな声に一瞬だけ空気が凍る。
「なんだァ? ただの獣人が」
次の瞬間、一人の男が気づいたときにはすでに地面に膝をついていた。
「忠告は一度だけだ」
フーリェンの瞳が琥珀にきらめいた。白髪が陽を受けて輝き、フードの下のその容貌は、人間離れした冷たさを湛えていた。残りの男たちは舌打ちしながら、子供を突き飛ばして逃げ去る。
フーリェンはそっと膝をつき、残された子どもへと目線を合わせる。
「もう、大丈夫だ」
その声は驚くほど優しく、無表情の顔にかすかな柔らかさが滲む。子供は涙を溢れさせながら、かすかに頷いた。その後、巡回の兵士に子供を引き渡し、フーリェンは再び歩き出す。表情はいつもと変わらず、ただ一度だけ、ふと立ち止まって空を見上げた。
まだこの都に、ああいうやつらが入り込んでいるのか。フーリェンは目を伏せ、先程の光景を思い出す。そして、その片隅に思い浮かぶのは、守るべき王都と、ここで暮らす無数の民たち。
「ルカ様に、報告すべきか……」
呟きと共に、白髪の青年は雑踏に消えた。誰よりも静かに、都の影を見つめる獣の護り手として。
⋆⋆
数刻後、王都北門近くの常宿。
懐かしい気配を感じ取ったフーリェンは、足を止める。戸の奥に漂うのは、炎の気配。獣の本能が、かすかに懐かしさを覚えていた。
「……ジンリェン」
扉の前に立つフーリェンの唇から、久しく呼んでいなかった名が、静かに漏れた。