狐の帰還
「……休暇を?」
小さく呟いたフーリェンは、わずかに眉を寄せてルカを見つめた。いつもの無表情のままながら、はっきりとした困惑が読み取れる。
部屋の空気は春の昼らしい穏やかな光に包まれていた。開け放たれた窓からは庭園の木々を渡る風がそよぎ込み、薄く花の香が混じっている。
「うん。しばらく任務で辺境の地に行っていたんだ。たまには王都の空気でも吸ってくるといいよ」
窓辺に腰掛けて、今しがた目の前の従者から受け取った報告書を読みながら、ルカはさらりと告げた。
「ルカ様、僕は――」
「だめだよフー。帰還直後の護衛に次の仕事を振るなんて、兄上たちの目もある。部屋で寝ているより、外に出たほうが気分転換にもなるだろう?」
「……はい」
上手い具合に口車に乗せられるも、それでも納得しきれない様子のフーリェンに、ルカはふっと笑みを漏らした。彼の指先が、無造作に金の髪をかき上げる。そのまま足元の引き出しから小さな包みを取り出してひらひらと白狐へと振って見せると、仕方ないとばかりにわざとらしく肩を竦めてみせた。
「じゃあ、これは“お使い”だ。梟の目に渡してきてくれるかい?」
「……お使い、ですか」
「そうとも。まさか、命令に背いたりはしないだろう?」
小悪魔のように笑う彼に、フーリェンは黙ったまま何度か瞬きをし、しぶしぶと頷いた。
「承知しました」
「うん。ついでに街で何か甘いものでも食べておいで。護衛ではなく、民としてね」
王宮を出たフーリェンは灰色の軽装を身に纏っていた。片手には主から渡された包み。深く被った外套で大きな耳を隠していても、透き通るような白髪と琥珀の瞳はその中で静かに存在を主張している。
石畳を踏む音が昼下がりの穏やかな空気の中に溶けていく。王宮を背にすれば、そこは人々の暮らしの息づく王都。通りには屋台が並び、行商人たちの声が響き、子供たちの笑い声が遠くで跳ねている。
この街の空気は、いつだって変わらない。
戦場を渡り歩いた後でも、この場所の春風はどこまでも穏やかで、彼に「生きて帰った」ことを実感させる。その華やかな街並みをゆっくりと歩く。懐の中に収めた包みの重みが、“任務中”の仮面をなんとか保たせる。休暇ではなく、お使い。自分にそう言い聞かせるように雑踏を抜け、目的の場所がある裏通りへと向かう。
通りを抜けると賑やかさはすっと薄れ、石造りの建物が肩を寄せ合うように並ぶ静かな路地へと変わる。そこは陽の届きにくい古い区画。けれど主はこの場所を「落ち着く」と言っていた。
やがて目に付くのは、古びた木製の看板のかかった一件の古本屋。静かに読書を楽しめるテーブル席がいくつか設けられたそこは、人目を盗んでよく主が訪れていた店。一瞬ドアに触れる手に迷いが生じるも、ふるふると頭を振ってその思いを吹き飛ばす。一息ついてから押し開けると、懐かしい店の匂いが鼻をかすめていった。
「いらっしゃい。あら、懐かしい顔じゃない」
ドアに取り付けられたベルが鳴り響き、奥から片目に眼帯をつけた年配の女が現れる。片耳のちぎれた犬獣人の店主は、深くフードを被った自身の姿をみとめると、すっと目を細めた。
「主より、お届け物を」
「まったく。あの坊っちゃん、最近顔を見せないなと思っていたところよ。まあいいわ。もちろんお茶くらい飲んでいくわよね、フーちゃん?」
断る間もなく奥の窓辺の席へ通され、湯気の立つカップが目の前に置かれる。目にかかった前髪を少し払ってから、そっとカップの縁へと口をつけた。
視線を巡らせれば、書棚の隙間には古びた羊皮紙が目に入る。天井の梁には小さな埃、軋む床の音に合わせて店主の足音が近づいては遠ざかる。
落ち着かない。
外套に忍ばせた短剣にそっと触れながら、外の通りに視線を移してみる。「休暇」と言われても、こうして一人で外へ出ると心はどうにも休まらない。癖のように、意識は出入りする人の動きや足音の途切れを追ってしまう。
染みついた習慣というのは、容易には抜けないのだ。
時折聞こえてくる商人たちの声と、大通りを駆け回る子供たちの笑い声。窓越しに通り過ぎる通行人の中に目立った人物はいない――と思った矢先だった。遠くから聞こえた小競り合いのような声に、狐の耳がピクリと動いた。気になるその音の方へと耳を傾け、ぐるりと視線を彷徨わせる。
通りの向こう、露店の陰。何かをしきりに引っ張っている粗野な男たちの姿が目に入ってきた。
静かに目を閉じ、ぐっと力を込める。途端にじんわりと暖かいものが両の目を覆う感覚にとらわれるが、それは気にしない。その暖かさを残したままフーリェンは再び男たちの方へと視線を向けると、その”目”で彼らの引っ張る何かを凝視した。
「……子供?」
そこに見えたのはやせ細った小柄な獣人の子供だった。よく見ると手首には鉄の枷をはめられている。
「折角の休暇も台無しだね。無理しないでいってらっしゃいな」
店主の声が届くよりも先に、フーリェンは駆け出していた。
――――
「悪いな坊主、まだ毛並みはいい。山向こうの領にでも流せば高く売れる」
「嫌だ! 離して……!」
悲鳴が小さく響くも、助けは来ない。頑なにその場から動こうとしない子供に痺れを切らした男が片腕を振り上げた直後、男の手元に、こつりと石が当たった。
「……誰だ!」
振り返った男たちの視線の先には、一人の細身の獣人の姿があった。
「おい、お前だな」
「その手を離せ」
男の声を遮るように発せられた声は低い。
「なんだァ? ただの獣人が」
次の瞬間には、一人の男が地面に膝をついていた。
「忠告は一度だけだ」
風に揺れた外套からのぞく白髪が、陽を受けて輝いた。フードの下のその容貌は、人間離れした冷たさを湛えている。
獣人相手に分が悪いと感じたのか、地面に転がる仲間を見捨て、男たちは子供を突き飛ばして逃げ去っていった。そんな彼らを追うことはせず、フーリェンはそっと膝をつくと残された子供へと目線を合わせた。
「もう、大丈夫」
手首に繋がった鎖を断ち切ってやり、泣きじゃくる子の手を引きその場を離れる。
近くを通った巡回中の兵士たちに子供を引き渡すと、フーリェンは再びフードを被り直した。
「ルカ様に、報告しないと……」
灯された柔らかな街灯の明かりを横目に、白狐の青年は雑踏の中へと消えていったのだった。




