プロローグ
【登場人物】
・フーリェン→主人公。愛称はフー。狐獣人。ルカの直属護衛を務める。
・ルカ→フェルディナ王国第四王子。フーリェンの主。
【世界】
・フェルディナ王国→5人の王子が統治する国家。物語の舞台。ヒューマンと獣人が共に暮らす。
・アドラ王国→隣国。
・獣人→獣の特徴を有した人類。ヒューマンとの大きな違いは「能力」を持つ個体がいること。そして寿命が長いこと。
小さな部屋だった。
白い霧が床を這い、割れたガラスと砕けた器の間に、赤く滲んだ跡が残っている。
喉の奥から、獣のような声がこぼれ落ちた。
叫びと呼ぶには幼く、泣き声と呼ぶには荒れていた。
指先が、定まらない。
骨の形が歪み、毛が生え、剥がれ落ちる。
白いもの、黒いもの、柔らかいもの、硬いもの。
身体は次々と別の姿を欲しがり、ひとつに留まろうとしなかった。
息をするたび、内側が裂けるように痛んだ。
このままでは壊れてしまうと、本能が告げていた。
「……シロぉ……」
声にならない声で、名前を呼ぶ。
縋るように、温もりを探した。
「大丈夫。……僕を見て、コン」
視界の端に、白い影が映った。
歪んだ視界の中でも、それだけは揺れなかった。
「苦しい時は、僕を見るんだ。僕を信じて」
その言葉に縋るしかなかった。
どんな姿になっても、
どれほど醜く歪んでも、
その腕は離れなかった。
だから、信じてしまった。都合の悪い現実に、目を瞑ってしまった。
「どんな時でも、ずっと一緒だ」
それが、たった一人の家族と交わした約束だった。
* * *
夜明け前の空はまだ深く、群青と灰に染まりながら、遠くの塔の影をゆっくりと浮かび上がらせていた。
その静寂の中、一匹の獣が琥珀色の瞳を闇夜に淡く光らせながら帰還した。
獣――フーリェン。
彼は隣国の辺境での偵察任務を終え、重い報告を胸に抱えて目的の部屋へと歩みを進めていた。
「おかえり、フー」
しばらく聞いていなかった穏やかな声が響く。その声に顔を上げれば、自身の主である第四王子ルカが笑みを浮かべて立っていた。
「任務はどうだった?」
主の問いかけに、フーリェンは一瞬言葉を選ぶように目を伏せた。その仕草の中には、腥風の匂いを嗅ぎ続けてきた獣の静けさがあった。
「無事に。しかし、アドラの動きには不穏なものを感じました。何かが確実に動き始めている、と……」
淡々と言葉を繋ぎながら目の前で立ち止まった彼の姿に、ルカは目を細めるとゆるやかに踵を返した。
回廊を歩く二人の足音は薄紅色の絨毯に吸い込まれて消えていく。擦れ違う見回りの兵士たちは背筋を伸ばし、音もなく礼をとる。
王宮の奥にあるルカの執務室に入ると、フーリェンは片膝をついて自身の主へと頭を垂れた。
窓の外では東雲の光がじわりと滲み始めていた。長い夜が、ようやく終わりを告げようとしている。
「そんなに堅くならないで。ここにいるのは、私と君だけだろ?」
困ったように小さく笑うルカの声は、春風のように穏やかだった。フーリェンは目を伏せたまま短く息を吐くと、少しの間を置いて淡々と答えた。
「心得ております。ですが――」
「なら、せめて顔を上げて。君の目が見えないと私は落ち着かないんだ」
ピクリと狐耳が揺れる。刹那の躊躇いが灯の揺らめきと共に浮かび、やがて彼は静かに顔を上げた。
琥珀色の瞳がまっすぐに王子を見つめる。光を受けたその目は、暖かな色合いとは裏腹に、深く澄んでいた。
「報告します。隣国アドラの西辺境では、王国軍の動きは確認されませんでした。しかし……民間の集落に、武装した獣人の姿が見られました」
ルカの表情から笑みが消えた。机の縁をなぞる彼の指の動きに合わせるかのように、暖炉の薪がぱちりと音を立てる。
「……アドラはまだ表立った動きは見せないつもりか。それとも……獣人を使った戦争を始める気なのかな」
「可能性はあります。戦闘は回避しましたが……」
「怪我は?」
「ありません。逃げ足には自信がありますので」
言葉の中に、冗談めいた響きが混ざっている。ルカはその微細な変化を逃さず、口元に再び笑みを浮かべた。
「ありがとう、フーリェン。君が無事に戻ってきてくれて、本当によかった」
窓の外で、空の色が少しずつ変わっていく。淡い光が雲を裂き、王都の尖塔に金の縁を描く。
ルカは立ち上がると、カーテンの隙間から覗くその光に目を細めた。
フーリェンはただ、静かにその背を見つめていた。
王宮の奥では今日も政が進められている。だが、確かに風は変わり始めていた。
隣国の陰、揺れる思惑、そして静かに動き出すかつての亡国の血。
獣はただ、武器を握る。
忠義の名のもとに。
愛する家族と、そして自身を救ってくれた仲間たちのために。
これは、光の裏で牙を研ぐ、獣たちの戦いの物語。




