北へ
【登場人物】
オリバー…フェルディナ王国第五王子。10歳。
ジュアン…オリバー(アルフォンス、ルカ)の義理の母。セオドア、ユリウスの実母。数年前に死別している。
あの日の少年の目を、今でもはっきりと思い出せる。自身を真っ直ぐ見つめていた、燃えるような赤色の目。
綺麗な目。
思えば、それがきっかけだったのかもしれない。彼が初めてだった。兄と、自分たちを救い出してくれた主人以外に、自分の意思で興味を持ったのは。あの目に映る自分でいたい、そう思ったのは。
気がつけば季節は何度も巡った。隣にいることもいつしか当たり前になった。
けれど、時折不安になることがある。自分は本当に彼の隣に立つ資格があるのだろうか。明確な形すらも持たない自分が、彼の隣で迷わずに歩けていけるのだろうか。
「……フー?」
柔らかな声に思考が現実に戻る。呼びかけに応えるように振り返ったフーリェンの目に映ったのは、微笑を浮かべたルカだった。陽だまりのようなその眼差しは、変わらず温かい。
「すみません、ぼんやりしていました」
「何か考えごと?」
「昔のことを、少しだけ」
ルカの問いかけにフーリェンは首を横に振ると、背を伸ばした。
彼らが向かうのは王宮の敷地内のにある一角――第五王子オリバーが滞在している別邸である。戦の影が近づくこの局面において、末の王子の身を堅牢な北の砦に移すことが決まった。その護衛としてフーリェンが、そして主としてルカが同行する。
小さな馬車が裏門に待機していた。「ねえ」と、続けざまに口を開いたルカへと片耳を傾けながら、フーリェンは受け取った手綱を手に握りしめた。
「君は、オリバーのことをどう思ってる?」
「……聡い方だと。年のわりに、状況をよく理解しておられます」
数年前に顔を合わせたきりの幼い王子の姿を想像しながらフーリェンは答える。話を振ったルカはその返答に満足そうにひとつ頷くと、「けれど」と続けた。
「賢い分、無理をしている。それが分かっていても、私たちにはあの子に幼さを与えてやる余裕がない。だからせめて、できる限り安心を与えたい。頼りにしているよ、フーリェン」
安心。その言葉の指す意味は理解している。しかし正直な所、警備網の厚い王宮から離れることが、本当に末の王子にとって良いことなのか、フーリェンには分からなかった。
やがて裏門が開き、扉の向こうに小さな人影が見える。背筋を伸ばし、じっと待つ姿は齢十の少年にしてはあまりに立派で、どこか儚い。
フーリェンは馬車の扉を開けると、ぽつんと立つ少年――第五王子オリバーへと頭を下げた。
「オリバー殿下。お迎えに上がりました」
「そのままでいいよ。僕は“弟”で、君たちは“兄”なのだから」
「……承知しました、オリバー様」
「ふふ。やっぱりかたいな」
三人を乗せた馬車は北の砦へ向かって動き出す。
揺れる車中には柔らかな光が差し、小さな窓から入り込む暖かな風がカーテンを揺らしている。オリバーは窓際に寄り、景色を眺めていた。
「この道を通るのは随分久しぶりな気がする」
「五年振りだね。砦に移られた母上にお会いするために一緒に通った」
穏やかな返答にオリバーは小さく笑う。やがてその目は隣に座っていたフーリェンへと向けられた。
「こんなことを聞くのは失礼かもしれないけど……。君は、怖くなかったの? 護衛になったとき」
唐突なオリバーの言葉に、フーリェンは少し考えるように視線を落とした。指先を落ち着きなく組み直すと、低く静かに答える。
「……怖かったです、最初は。自分で選んだ道のはずなのに……どうしようもなく、不安になったりもしました」
「今は?」
「慣れたわけではありません。ただ、『この方のために』と決めた時に、迷いは消えました」
そう言ってルカを見やるフーリェンの目の奥には、揺らぐことのない芯があった。オリバーはその眼差しをまっすぐに見つめる。
「この方のために、か。ジュアン母様も、そう思ってくれていたのかな」
ポツリと落ちた、寂しさを滲ませた声。数年前に死別した母の顔を思い出したのだろう。
「きっと、ジュアン様もそう思っておられたはずですよ」
フーリェンもまた、ここにはいない彼の母――ジュアンの顔を思い浮かべる。言葉を交わした数は多くはない。それでも、彼女の眼差しが暖かかったのを覚えている。
そんなことを考えながら再び顔を上げれば、控えめに目を細めた少年の姿が目に入る。問いかけの答えは、どうやら間違ってはいなかったみたいだ。
「ありがとうフーリェン。やっぱり、君はちょっと変わっているね」
窓の外には深い森が広がっている。馬車がガタリと揺れ、道が変わったことを知らせる。
北の砦まであと少し。
女王が治める北の大地。あるのは「希望」か、それとも「絶望」か。今はまだ分からない。
それでも――
役割は変わらない。目の前の幼い王子を、そして敬愛する主を守る。それだけ。
フーリェンは一度深く息を吸うと、窓の外に見える雪の残る山々へと静かに目を向けるのだった。




