春
第七地区の冷たい風が、破れかけたフードの隙間をすり抜ける。隣に座り込むセオドアに気を配りつつ、シュアンランは周囲へと警戒を向けていた。
些細な情報も聞き逃すまいと、フードの下で狼の耳がぴくりと動く。聞こえてくるのは浮浪者の声や足音。時より大きな怒鳴り声。
湿り気のある地面。鼻をかすめるのは錆びた鉄と下水管を流れる汚水の臭い。外は花々が咲き始める春先だというのに、地下はその名の通り隔離されているかのように季節を感じられない。
そんな外の世界から切り離された掃き溜めのような場所で、脳裏を掠めたのはある春の記憶だった。随分と昔のその情景を、今でも鮮明に覚えている。
シュアンランは小さく息をつくと、思考の底へと沈み込むようにそっと目を閉じた。
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まだ肌寒さが残る初春の朝のことだった。
朝日が差し込む訓練場の隅。いつもなら使用されていない開けた一角に、ぽつんと立つ小さな影があった。
透き通るような白髪は短く刈りそろえられ、手足は頼りなく細い。だけど姿勢だけは、妙に整っていた。
付き添いの兵士が一人、少し離れて見守っている。どうやら今日が、彼にとって初めての外での“訓練”らしかった。
「……あれが、噂の子」
仕事が忙しいからと、あの日は外で遊んでくるよう母に言われた。特別やることもなく兵士の父を捜しに訓練場を訪れてみたら、噂には聞いているけど話したことのない子がいた。
そんな、偶然が重なっただけの出会いだった。
目を離せなかった。一人ぽつんと佇むその子は、空気のようだった。けれど目が離せなかったのは、それだけではない。
目の奥に、何かがあった。
恐れと不安。そして――孤独。
誰よりも透明で、誰よりも傷ついている。
その姿に、胸を掴まれた。
付き添いの兵士が何かを話しかけ、その子は一言も答えないまま頷いて水筒を受け取った。無言で飲み、手渡し、また視線を訓練場へと戻す。
「……しゃべらねぇんだな」
声が聞こえたのだろうか。その狐の子がちら、とこちらを見た。一瞬あった目は、驚くほど綺麗な琥珀色だった。
思わず口角が少しだけ上がる。でもそれだけ。体は動かなかった。いや、動けなかった。それは恋と呼ぶには幼すぎる想いだったかもしれない。けれど、確かにその瞬間から、自分は“彼”を忘れられなくなった。
あの一瞬の出会いから幾年も月日は巡った。狐の子は自分と同じ護衛の任に就き、王子に仕え、地位を得た。
だけど――
あの目の奥にあった孤独は、まだ完全には消えていない。だから守りたいと思った。強さではなく、ただそばに立ち続けることで。少しでも、あの子に近づきたいと思ったのだ。
* * *
空はどこまでも広く、青かった。こんなに空が高いなんて、知らなかった。
部屋の外に出るのは初めてだった。外といっても、王宮の内庭にある訓練場。けれど自分にとっては、そこは立派な“外の世界”だった。
兵士が一人、ついていた。何度も振り返って確認するその姿に、自分が何かあったら戻される存在だということを思い知らされる。
大丈夫。今日は誰にも変わらない。
気が遠くなるような時間をかけて、沢山の人達に迷惑をかけて、ようやく、能力を抑える術を掴んだ。だから今日は、試しの日。恐る恐る、地面に足をつけて歩く。
石の敷き詰められた地面。柔らかな草。吹き抜ける風。
初めての感覚が怖かった。
不安だった。
そんなとき、視線を感じた。
ふと顔を上げると、少し離れた柱の陰に狼の少年が立っていた。さらりとした灰銀色の髪。精悍な輪郭に、やや鋭い目。
心臓が跳ねた。
こちらの不安を見透かすような、真っ直ぐな赤色の目。けれどそこには、軽蔑も哀れみもなかった。ただ見ていた。自分という存在を。
目が合わないように咄嗟に視線を逸らした。背筋が伸びた。
「フーリェン、少し冷えるが、水を飲んでおけ」
付き添いの兵士が声をかけてきて、思わず身体が強張った。手渡された水筒を受け取って、ゆっくりと水を口に含む。
もう一度、今度は勇気を出して少年のほうに視線を戻してみると、彼はまだこちらを見ていた。ほんのわずかに、口角が上がっていたように見えた。
微笑んでくれたのか、それとも気のせいだったのだろうか。
でもその笑みが、何かを確かに残した。胸の奥に、小さな灯のように。
それからその少年を何度も訓練場で見かけるようになった。名前も知らず、話したこともないのに、不思議とその姿は遠くはなかった。
やがて少年は無口な自分に頻繁に会いに来るようになった。名前はシュアンラン。自分と同じ、名前の後ろに花の響きを持つ狼の男の子。
いつか肩を並べて歩けるように。
ただそれだけを願ったことを覚えている。




