春
第七地区の冷たい風が、破れかけたフードの隙間をすり抜ける。隣に座り込むセオドアに気を配りつつ、シュアンランは周囲へと警戒を向けていた。フードの下で狼の耳がぴくりと動き、小さな音を拾おうとする。聞こえてくるのは浮浪者の声や足音。時より大きな、怒鳴り声。
じめついた地面。鼻をかすめるのは錆びた鉄と下水管を流れる汚水の臭い。外は花々が咲き始める春先だというのに、地下はその名の通り隔離されたかのように、季節を感じられない。
そんな外の世界から切り離された掃き溜めのような場所で。脳裏を掠めるのは、ある春の記憶。随分と昔のその情景を、自分は今でも鮮明に覚えている。シュアンランは小さく息をつくと、思考の底へと沈み込むように、そっと目を閉じた。
**
その日は、まだ肌寒さが残る初春の朝だった。
朝日が差し込む訓練場の隅、いつもなら使用されない開けた一角に、ぽつんと立つ小さな影があった。
――フーリェン
透き通るような白髪は短く刈りそろえられ、手足は頼りなく細い。だけど姿勢だけは、妙に整っていた。付き添いの兵士が一人、少し離れて見守っている。どうやら今日が、彼にとって初めての外での"訓練"らしかった。
「……あれが、噂の子」
自分はその時、たまたま訓練場に来ていた。歳は11。まだ正規の兵士にもなっていなかったが、父親譲りの体格もあってか、それでも身体はしっかり鍛えられていた方だと思う。
目を離せなかった。一人ぽつんと佇むその子は、まるで空気のようだった。音も気配も、存在すらかき消してしまうような。けれど目が離せなかったのは、それだけではない。
目の奥に、何かがあった。
恐れと不安。そして――凍りついたような孤独。
誰よりも透明で、誰よりも傷ついている。
その姿に、胸を掴まれた。
付き添いの兵士が何かを話しかけ、その子は一言も答えず、うなずいて水筒を受け取った。無言で飲み、手渡し、また視線を訓練場と戻す。
「……しゃべらねぇんだな」
思わず口にした声に、その狐の子がちら、とこちらを見た。一瞬、目が合った。氷のように冷たく、けれど驚くほど――綺麗な琥珀の瞳をしていた。
思わず、口角が少しだけ上がる。でもそれだけ。体は動かなかった。いや、動けなかった。それは、恋と呼ぶには幼すぎる想いだったかもしれない。けれど、確かにその瞬間から、自分は“彼”を忘れられなくなった。
**
あの目を、今でも覚えている。
あの一瞬の出会いから幾年も経った。フーリェンは自分と同じ護衛の任に就き、王子に仕え、立場を得た。
だけど――
あの目の奥にあった孤独は、まだ完全には消えていない。だから、守りたいと思った。強さではなく、ただそばに立ち続けることで。その手が、二度と見知らぬ力に呑まれることがないように。
――――
あの日、空はどこまでも広く、青かった。こんなに空が高いなんて、知らなかった。
部屋の外に出るのは、初めてだった。外、といっても、王宮の内庭にある訓練場。けれど自分にとっては、そこは立派な“外の世界”だった。
兵士が一人、ついていた。何度も振り返って確認するその視線に、自分が“何かあったら戻すべき存在”だということを思い知らされる。
大丈夫。今日は誰にも変わらない。
気が遠くなるような時間をかけて、沢山の人達に迷惑をかけて、ようやく、能力の暴走を抑える術を掴んだ。だから今日は、試しの日。おそるおそる、地面に足をつけて歩く。
石の敷き詰められた地面。柔らかな草。吹き抜ける風。
初めての感覚が、怖かった。
不安だった。
どこかで、また“自分”が壊れる気がして。
そんなとき――
視線を感じた。
ふと視線を上げると、少し離れた柱の陰に、狼の少年が立っていた。さらりとした灰銀色の髪。精悍な輪郭に、やや鋭い目。
一瞬で心臓が跳ねた。
まるで、こちらの不安を見透かすような、真っ直ぐな目。けれどそこに、軽蔑も哀れみもなかった。ただ、見ていた。自分という存在を。目が合わないように、咄嗟に視線を逸らす。背筋が伸びる。
「……フーリェン、まだ冷えるが、少し水を飲んでおけ」
付き添いの兵士が声をかけてきて、思わず身体が強張った。手渡された水筒を受け取って、ゆっくりと水を飲む。
もう一度、今度は勇気を出して少年のほうに視線を戻してみると、彼はまだこちらを見ていた。今度は、ほんのわずかに、口角が上がったように見えた。
――微笑んでくれたのか、それとも気のせいだったのだろうか。
(……よく、わからない)
でもその笑みが、何かを確かに残した。
胸の奥に、小さな灯のように。
それから――その少年を、何度も訓練場で見かけるようになった。名前も知らず、話したこともないのに、不思議とその姿は遠くはなかった。やがて少年は、無口な自分に、頻繁に会いに来るようになった。名前はシュアンラン。自分と同じ、名前の後ろに花の響きを持つ、狼の男の子。
いつか肩を並べて歩けるように。
ただそれだけを、願ったことを覚えている。




