セオドアとシュアンラン
王宮の一角、冷たい石畳には足音がひとつ、静かに響いていた。会議を終えたセオドアは、ふと立ち止まる。扉の向こう――待っていたのは、灰銀の髪と赤色の目を持つ男だった。
「シュアン」
「……殿下」
背筋を伸ばして礼を取るシュアンランに、セオドアは片手でそれを制した。
「形式はいい。顔が見られて安心した。長かったな。西から南まで、ご苦労だった」
「はい。ご心配をおかけしました」
「無事ならいいさ。――戦地では一面凍らせたと聞いた」
「………思ったよりも数が多かったので、凍らせた方が手っ取り早いなと」
セオドアは小さく笑う。
「お前らしい、合理的な判断だ。…南の空気はどうだった? 目に見えるものではなく、肌で感じた“空気”だ」
その問いかけに、シュアンランは静かに視線を落とした。やがて、静かに、言葉を選ぶように口を開く。
「濁っていました」
「濁っていた?」
「人も、風も、獣も、全てが。言葉には表れずとも、警戒と焦燥が滲んでいた。まるで何かを――既に隠している者たちのように、です」
「……そうか」
セオドアはわずかにうなずき、深く息を吐いた。
「俺も、報告で聞いたあの使者の物腰には、違和感を感じている」
「ええ。あの場ではただ一度も、俺たちを“見下ろそう”とはしなかった。あれは礼ではなく、計算の上での“目線”です。こちらの出方を、探っていました」
「つまり……敵は既に“こちら側に入っている”と見て間違いないか」
「そう判断して差し支えないかと。南は、静かすぎます。逆に不自然なほどに」
従者の見解に、セオドアは沈黙する。その横顔は美しく整っていたが、瞳の奥には研ぎ澄まされた冷気があった。
「……やつらの目的は、計画の完成に欠かせないフーリェンの能力だろうな」
「……はい」
「あいつの能力は、ただの模倣ではない。異形を持ち帰った時点で、敵はそれを確認した。ならば、次に来るのは“確保”だ。あるいは“無力化”」
「そのどちらも、我々にとって最悪の結果です」
「……だからこそ、お前に訊きたかった」
セオドアはそこで言葉を切り、静かにシュアンランを見つめた。
「お前は……もし”彼”が、、…“彼女”が、自らを失うような状況に陥ったとしたら、その時どうする?」
一瞬の沈黙。シュアンランの瞳がわずかに揺れた。だが、紡がれた答えに迷いは無い。
「――そうなる前に、取り戻します」
「そうか。なら、俺も信じよう。それに――」
セオドアは、自身の従者である狼男へと、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべる。
「その役目は、お前ではなくジンリェンかもしれないしな」
少しの間、続いてシュアンランが反抗するように笑った。
「そんなこと仰っても、俺は動揺しませんからね」
「そうか、残念だな」
そう言いながら、セオドアはちらりとシュアンランの尾に視線を向けた。本人は隠しているつもりのようではあるが、その尾はピンと張って落ち着きがない。
回廊の奥へと、二人の姿がゆっくりと消えていく。
その背中には、それぞれの決意が静かに宿っていた――。
――――
重く閉ざされた扉の内側、室内には地図と報告書が広げられ、淡いランプの火が静かに揺れていた。
セオドアは書類に目を通しながら、広げた地図に指を滑らせる。その傍に立つシュアンランは背筋を正し、主の言葉を待っていた。
「……オルカではすでに、複数の異形が戦力として運用されようとしている」
「……しかも“実用段階”にある状況です」
「そうだ。それだけではない。小国・リヴェラが裏で異形化技術に協力していた形跡をフーリェンが持ち帰ってきた。表向き両国に動きはないが、手を引いているのは確実と言えるな」
「リヴェラ…医療技術の分野に秀でたあの国が、どうして…」
セオドアは苦々しげに呟いた。
「東側にも不穏な動きがある。今回は私も動く。ついてこい、シュアン」
セオドアの声に迷いはなく、明確な信頼が込められていた。そんな主人の言葉に、シュアンランは姿勢を崩さぬまま、静かに頷く。
「承知しております。……ただ、僭越ながら、ひとつ懸念を」
「言え」
「先程の会議でも上がった王都に潜伏している可能性のある南の密偵。もしそれが、事実であるなら、…警戒すべきは、外ではなく、既に内なのではと」
セオドアの手が止まり、その視線が地図から離れる。
「――可能性としては、否定できない。だが、仮に内に紛れていたとしても……それを見逃し続けるほど、俺たちの目は節穴ではない」
軽く笑みを浮かべたセオドアに、シュアンランは小さく目を伏せ、そして改めて膝を折り頭を垂れた。
「ご命令を。何処へでも、お供いたします」
「頼む」
セオドアは書類を一つにまとめながら、命じる。
「五日後に出立する。必要な装備と偽装の準備は、その間に整えておけ」
「御意」
王子の命を胸に、狼男は音もなく立ち上がると、静かに部屋を後にした。




