再偵察3
夜明け前。まだ空は仄暗く、かすかに白む東の地平が新たな一日の訪れを告げていた。冷えた空気の中を、二人の獣人は無言で歩みを進めていた。兵舎の裏手から馬を引き出し、最低限の荷を鞍に括りつける。会話はほとんど交わさずとも、息はぴたりと合っていた。
「…風が冷たいな」
シュアンランがぽつりと呟くと、フーリェンは少し間を置いて返した。
「雨の匂いがする。空も重い」
「嫌な予感、か?」
「……少し」
互いに視線を交わし、頷く。任務の概要は単純だった。国境付近の居住区で、数件の家族が忽然と姿を消したという知らせがあった。集落周辺の痕跡や目撃証言には曖昧な点が多く、単なる盗賊や逃亡とも考えられたが――王宮側に届いた報告の中には、一つだけ、引っかかる言葉があったのだ。
「“人ではないもの”が夜に歩いていた」
フーリェンとシュアンランは、その確認のために出立する。それは敵国からの使者の到来のすぐ後、あまりにタイミングが良すぎた。
砦から馬でおよそ半刻程、森を抜け、崖沿いを進むと、やがて開けた高台へと辿り着いた。そこから国境の村が一望できる。遠くに見える煙と、わずかに見える塀の影。だが、かつてあったはずの見張り塔が、一塔だけ壊れているのが確認できた。
「塔が……」
「折れたっていうより、潰されたように見えるな」
その光景に、シュアンランが眉をひそめた。馬を下り、徒歩で村の裏手に向かう。接触は避け、まずは外周の偵察。足元には異常はないが、土が柔らかく湿っている。
「雨は降ってないのに……湿ってる」
シュアンランはしゃがみ込むと、泥を指でつまんだ。
「……このにおい…雨にしては何か…」
「明らかに何かが起きてる。……今晩、張るか?」
フーリェンは頷くと、懐から小さな布地の地図を取り出し、指先で村の南東の小高い岩場を示した。
「ここなら全体が見渡せる。夜明けまでは動かないほうがいい」
「了解。……また、長い夜になりそうだな」
夜が来る前に二人は簡易な隠れ場を整え、村を見渡せる位置に潜んだ。風が止み、鳥の声も消える。空は雲に覆われ、月明かりすらない。まるで、誰かが来るのを待っているかのような、深い静けさが辺りを覆っている。その静けさに不快感を持ちながら、フーリェンは静かに外套のフードを被り直した。
――――
月は雲に覆われ、見渡す限り闇に包まれる。フーリェンとシュアンランは、村の南東の岩場に身を潜め、沈黙のまま時を待っていた。虫の声さえも止み、ただ風の抜ける音が耳に残る。やがて、どこか遠くで“何か”が軋む音がした。
「……聞こえたか?」
小さく、シュアンランが隣へと問いかける。フーリェンはこくりと頷くとそっと立ち上がり、岩陰から視線を村へと向けた。村の端。見張り塔の残骸の影、そこに“何か”がうごめいている。最初は獣かと思った。だが、動きに不自然さがある。四足とも二足とも言い難い姿勢で、ぬるりと這い、壁をすべるように移動していく。
シュアンランも息をひそめ、目を凝らす。その影の“背”には、ありえないほどの瘤がいくつも連なり、肩から背にかけて骨のような突起が浮かび上がっていた。
「……あれ、人か?」
小声で囁くシュアンランの言葉に、フーリェンは返さなかった。ただ、その視線は鋭く、どこか痛ましげだった。影の周囲に、もう二つ、三つと同じような影が現れ始める。人の姿をしているようで、どこかが決定的に歪んでいる。手足の長さ、皮膚の質感、異様に開いた目の光――。
「……異形化してる」
フーリェンがぽつりと呟く。
それらは、音を立てずに村の中央へと集まっていく。
まるで何かに導かれるかのように、同じ動きで、同じ方向へと這い寄る。
「まずいな……こりゃもう、手遅れかもしれねぇ」
「……まだ断定はできない。けれど、あれは……」
シュアンランの目に、一つの異形が映った。顔の半分が獣のように変質し、反対側は人の若者のまま。見覚えがある。前に野盗討伐のために訪れた際、話したことのある者だ。名前は確か…アスカンといったか。
次の瞬間、中央の建物の屋根に一人の黒ずくめの影が立った。異形たちが一斉に頭を垂れ、その人物を仰ぐような動作を見せる。
その様子に二人は即座に岩陰へ伏せ、視線を交わす。張り詰めた空気の中、二人は再び息をひそめ、遠くに見えるその様子をじっと見つめた。
異形たちが倒壊した塔に集ってから、数分。黒ずくめの人物が屋根の上からゆるやかに手を振り下ろした。それが合図のように、異形たちは即座に立ち上がり、まるで同じ心臓で動いているかのように、一糸乱れぬ動きで踵を返す。音もなく南の森の中へと滑り込んでいくのを前に、黒ずくめの人物もまた、身を翻し、月明かりの陰へと姿を溶かす。その背は、人とは思えぬほどに細く、長かった。
「撤退……?」
小さく呟いたシュアンランの声に、フーリェンが頷く。
「目的は、既に終わっていたのかも。僕たちが気づくよりもずっと前に」
森の向こう――国境の線が曖昧な場所に向かって、彼らは規則的に、けれどどこか壊れたような動きで消えていく。
「……あの動き、まるで“命令”に従ってるみたいだな。言葉もなしに」
「洗脳か、精神支配の能力か……あれはもう、自分の意志で歩いてない」
夜の空気が、ひどく重たく感じた。フーリェンは胸の奥にざらついた感覚を覚える。それは恐怖ではない、けれど確かに“何か”が迫っていると警鐘を鳴らしていた。
「………これで終わりじゃない」
「だな。引いたってことは、まだ続きがある」
森の奥。風に揺れる梢の間から、最後に一体だけ――遅れたように振り返った獣がいた。半ば崩れかけた顔、虚ろな目。だがその視線は――まっすぐ、こちらを見ていた。
フーリェンの背に、かすかな悪寒が走る。
「……戻ろう」
「いいのか?」
「…このまま深入りすれば、罠に飲まれる。報告のほうが先」
フーリェンはもう一度、森の奥に視線を向けた。そして、何かを心に刻むようにゆっくりと背を向ける。
「奴らは、戻ってくる。今度はもっと――数を増やして」