束の間の日常
陽は沈み始め、王宮の中庭には西日が差している。医務室を後にしたフーリェンは、一人白壁沿いの回廊を歩いていた。風に揺れる木々の葉音や、遠くから響く兵士たちの掛け声が、ひどく現実味のある響きを持っている。
やがてたどり着いた訓練場の入口に足を止める。広い土の広場では、数十人の兵士たちが槍や剣を構えて組手を繰り返していた。汗に濡れた背中、真剣なまなざし、鋭く交差する音。そのすべてが、自分にとっては“日常”で。だけど今は、どこか遠いもののように感じられる。
「……暖かいな」
ぽつりと、誰に向けるでもなく呟いたその声は、風にかき消されるほど小さかった。ふと、視線を感じて振り返ると、白狐がこちらへ歩いてきていた。
「この時間にここにいるとは…。……医務室、逃げ出したか?」
「逃げてない。………さっきまで休んでた」
「ふぅん。体は、もう大丈夫なのか?」
ジンリェンは軽く眉を上げながらも、声色には優しさが滲んでいた。フーリェンはわずかに頷き、視線を訓練場に戻した。
「槍の動きが、少し緩い。……あの後列の二人、息が合ってない」
「相変わらず、そういうところを見抜くのは早いな。お前」
そのままジンリェンも隣に立ち、同じ景色を眺める。やがて、兵士の一人が大声で号令をかける。動きが揃い、槍が風を切る音が広場に満ちていく。
「…帰ってきたって実感が湧くの、こういう時かもな」
ぽつりと呟いた兄の言葉に、フーリェンは小さく頷いた。
「お前、この前会ったときより痩せたか?」
不意にジンリェンが呟いた。その言葉には、非難ではなく、ただ純粋な兄としての心配が滲んでいた。フーリェンは返事をせず、軽く肩をすくめる。
「食えないのか?」
「……少し、食欲がないだけ」
ジンリェンはそれ以上は詮索せず、しばし口を閉ざした。風が吹き、訓練場の砂を軽く巻き上げていく。
「……お前のこと、俺は誇りに思ってる。だけど、誇りに思うってのは、別に“壊れても構わない”って意味じゃない。……ちゃんと、守りたいって思ってる」
「………兄さん」
その呼び方を使うのは、よほどの時だ。フーリェンがそれを口にしたことに、ジンリェンは少しだけ目を見開いた。
「僕は、…自分が何か、分からなくなる時がある。見えるものに次々変わって、戻れなくて。今も、全部思い出せるわけじゃない」
「……ああ」
「けど、みんなが僕を“フーリェン”って呼ぶから……今は、その名前で立っていられる」
言葉はとても静かだった。だが、それは強さでもあり、脆さでもあった。
そっと、肩に手が置かれる。その掌から伝わるのは、力ではなく、ぬくもりだった。
「お前が前を向くなら、俺は後ろを守る。それだけだ」
「……うん」
フーリェンの声は掠れていたが、確かな感情が宿っていた。だがそんな兄弟の時間を割るように、訓練場の入り口から兵士の一人が駆け込んできた。
「ジンリェン隊長、フーリェン隊長! 至急、会議室にお集まりくださいとのことです。南境の情勢に動きが――!」
その言葉に、ジンリェンが顔を上げ、フーリェンは無言で背を正す。
「…日常は、長く続かないものだね」
フーリェンが呟くと、ジンリェンはわずかに笑って応えた。
「だからこそ、こうして噛み締めるんだろ?」
束の間の日常も、すぐに終わりを告げる。二人は揃って訓練場を後にすると、再び戦いの渦中へと歩を進めるのだった。