偵察3
人気のない時刻を見計らい、フーリェンは屋敷の裏手から潜入を試みた。身体はまだ“猫”のまま。柔軟な体躯は、警備の網をくぐるには都合がいい。軒下から梁へ、梁から物置の影へ。夜の屋敷に忍び込む足取りは、まるで影そのものだった。
監視の動きは緩い。薬を飲まされた者が警備に回されているのか。目に映るのは、焦点の定まらない目をした若者たちの姿。ゆるやかに歩哨を回っているが、どこか機械のように動きがぎこちない。
そのまま警備網を抜けるようにぐるりと回り込むと、ポツリと立っている倉庫に目がいく。軽く扉を押してみると鍵はかかっていなかったようで、きぃ、と開く。
中は物置のようになっていて、埃がまっていた。異国の文字が書かれた箱に、端が破れた羊皮紙が所々に散乱している。一件使われていないようにも思えたが、そこでフーリェンは違和感を覚えた。手入れがされていない割には、床だけが綺麗に掃除されている。
違和感の正体を確かめるように、慎重に奥へと歩みを進めたフーリェンは、やがて床板の隙間に気がついた。音を立てないよう丁寧に板を外すと、地中へと続く急な階段が現れる。
──地下は、異様な静けさに包まれていた。
蝋燭のような仄明るい光と、かすかな薬品の匂い。壁には古びた鉄の枷や拘束具が並べられ、奥へと進むほどに空気は冷たく、重たくなる。部屋の一角。棚に並ぶ瓶の中には、獣人の耳や牙、切り取られた尾が液に浸されて保存されていた。
“解体”ではない。性質の違う獣人の部位を、目的別に分けているのか。その向かいの机には、骨格図。人型と獣型の比較に加え、そこに線で繋がれている「異形」の図が散乱している。
背中から腕のような突起を生やした獣人。
身体の大半を黒い瘴気に覆われた“何か”。
明らかに自然の成り立ちではありえない“歪み”の記録。さらに奥の実験室には、培養槽がいくつも並んでいた。濁った水の中に浮かぶ、まだ形の定まらない“素体”。
ふと、壁に貼られた書き付けがフーリェンの目に留まった。
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「変異第7段階にて拒絶反応。氷の因子、適合不十分。火系統の血統との統合を検討」
「第1試験体、制御不能。南境の村にて喪失」
「本件、引き続き“リヴェラ”との交渉を優先すること」
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静かにフーリェンの目が細くなる。琥珀の瞳に宿るのは、冷え切った怒気。リヴェラとは、フェルディナ王国の西側にある小国である。医学の発展したその国は、フェルディナとも交易を行う隣国の一つだが、西の大国アドラとの接点もあることから、先日までフーリェンが偵察のため訪れていた。その時には、表立った動きは確認できなかったが、これは…。
一歩前に出てその資料に手を伸ばした瞬間、背後でわずかな気配が動く。
フーリェンは反射的に身を翻すと、腰の短剣で引き抜きざまに”何か”を切りつけた。空を裂くように音が走り、影がひとつ、壁際に倒れる。
「……見張り、か」
ほのかに灯るランタンの下、鉄錆と獣臭が入り混じる空気の中で、フーリェンは再び起き上がった異形と対峙した。目の前に立つのは、かつては人だったはずの存在。異様に膨れた筋肉、両腕から伸びた骨の棘、そして獣の咆哮とは違う、苦痛と怒りが混ざった唸り声。
フーリェンは呼吸を静めながら短剣を構えた。
「悪いな…」
低く呟くと同時に、異形の一撃が壁を砕く。土煙の中をすり抜け、変化で獲得した兎の跳躍を使って一気に間合いを詰める。喉元へ伸ばした剣先が、一瞬だけ輝いた。
――――
形を変えた獣人の亡骸を前に、フーリェンはしばらく足を止めていた。鋭く変形した爪、膨張した筋肉、濁った瞳。すでに理性を手放していたその姿は、かつて人であったものの残骸にすぎない。
これは、もう戻れない。自身の変化の能力は、"目で見た""記憶した"獣人の特徴を模倣することができる。けれど、それはあくまで対象の肉体的な特徴に限る。しかしこの異形化したものの姿は、すでに肉体的なそれを逸脱してしまっている。
フーリェンの模倣は、ある条件を満たせばその能力そのものをも模倣することができる。条件とはつまり、──“取り込む”こと。
フーリェンは爪先で死骸に触れた。血にまみれた獣毛を払いながら、静かに片膝をつく。指先が骨格と筋肉の構造をなぞり、その異様な膨張を確認する。全身に冷えた感覚が走り、吐息の奥に、微かな嫌悪が滲んだ。
意識の奥で何かが反発する。だが、フーリェンはその小さな拒絶を振り払うように、瞼を閉じた。
「……嫌だけど、やる」
呟きは誰にも届かない。それは、感情の揺らぎすら口にすることのないフーリェンが、自身に向けて唯一許した“本音”だった。
彼は知っている。“喰らう”とは、形を借りることではない。対象そのものを、自分の中に一時的に“宿す”ことだ。
静かに目を閉じ、フーリェンは獅子の牙を模倣する。その異形の腕を抱え、口元に運んだ。骨が軋み、神経が軋む感覚が内側から這い上がってきた。
「……っ」
腕の一部がわずかに変化し、異形の筋線維を模したものが浮かび上がる。
この量なら、王宮まで持つはず。フーリェンはゆっくりと立ち上がった。目元には、微かな影。だがその代わりに、決意の色が濃く灯っていた。
「任務が最優先。……それだけ」
“穢れ”も“躊躇い”も、すべて後回しだ。王宮に帰れば、仲間も、信じられる主も、僕にはいる。
だから今は──ただ進む。
異形の力を宿したまま、フーリェンは闇に溶け込むように屋敷を離れた。証拠は己が身体の内に。
あとは、王宮へと届けるだけ――
この異常の始まりを止めるために。