偵察4
夜の空気は、乾いて冷たかった。
屋敷の裏手。林の影に身を潜めながら、フーリェンは自身の背に意識を集中させた。
途端に背中の皮膚が波立ち、骨が軋みを上げる音とともに翼が生まれる。大気を掴むに足る、猛禽類の厚くしなやかな翼膜──その質感まで再現された二枚の翼が、静かに闇の中で広がった。
一度、肩甲骨を強く動かす。風を読み、その流れに身を乗せるようにして──
ふわり、と身体が浮いた。
木々を掠めながら浮上する。次の瞬間には、フーリェンの身体は大気の海を泳ぎ始めていた。朧に見える山々と稜線。その合間をすり抜けながら、彼は南境から王都へと一直線に向かっていく。
この速さなら、数刻もあれば辿り着ける。
翼が風を切るたび、少しずつ体温が奪われていく。しかし、肌を刺す寒さも痛みも今の彼には関係なかった。
実験の痕。消えた若者たちの影。そして、そこに蠢く何か黒い意思の存在。この情報は生きたまま届ける必要がある。
フーリェンの脳裏には、主君であるルカの顔が浮かんでいた。何気ない会話の端々で見せた、あの聡明な眼差し。すべてを懸けて守ると誓った、ただ一人の主の姿。
翼は疲労を訴えていたが、それを無視して高度を保ち続けた。
眼下に王都の明かりが滲み始める。光の海に向かって白銀の髪をなびかせながら、夜空を翔けていく。
静寂の中に舞い降りた神獣のように。どこまでも美しく、どこまでも冷ややかに。
王都は、すぐそこにある。
――――
静まり返った夜の王都。月は雲に隠れ、辺りは一層の闇に包まれていた。見張り台の上では、二人の兵士が交替の時間を待ちながら無言で周囲を見回していた。そのうちの一人──夜目に長けた鷹獣人の青年が、ふと南の空に目を凝らす。
「おい。今、なにか見えたぞ」
「……は? どこだ」
「……飛んでいる。鳥じゃない、あれは……」
雲の隙間から月が顔を出した刹那、彼の双眸が空を裂く影を捉えた。
「待て」
視線をさらに絞り込み、人影の首元で揺れる小さな紋章を確認する。
「直属護衛の紋……」
「まさか……!」
もう一人の兵士が息を呑む。
「この時間に、それも空から……普通の任務じゃないな」
兵士はすぐに信号弓を取り出し、空へ向けて矢を放った。それは「味方の重要人物、空路にて帰還中」の合図。見張り台から塔へ矢の光が連なり、王宮内へと情報が走っていく。
事態は動き出す。
ひとつの獣人の影が、夜空を裂いて戻ってきたことを合図に。
それは静かな緊張と新たな騒乱の始まりを告げる狼煙でもあった。
――――
フーリェンはゆっくりと歩みを進めていた。爪は鋭く伸び、瞳は赤黒く光っている。その姿はまるで化け物が人の形を保とうと藻掻いているかのようだった。
「……フーリェン?」
彼の姿をみとめたルカの声は小さく震えていた。夜勤の兵士たちの表情には恐怖と戸惑いの色が走り、アルフォンスでさえも眉を深く寄せている。
「……一体、南で何があったんだ、フー……」
フーリェンはゆっくりと頭を下げ、異形の姿でありながらも揺るがぬ決意を滲ませていた。
「報告を――」
しかしその先の言葉は出なかった。視界が霞み、足元がふらつく。広間に集まる全員の視線が、一斉に彼に注がれた。
身体はみるみるうちに縮み始め、その形が徐々に薄れていく。血を含んだような瞳は柔らかな琥珀色に戻り、鋭い爪もいつもの白い指先へと変わっていった。
「フーリェン!」
肩を抱かれた温もりに安堵しながら、彼の意識は暗い闇の底へと沈んでいったのだった。




