第一話 目の前に広がるもの
どれだけ時間が経ったのだろう。瞼を貫く強い光にゆっくりと意識が浮上する。
何度か瞬きをする内にぼやけていた視界が輪郭を持ち始めた。
風が冷たい。
長いこと感じていなかったそよ風が頭を冷やした。目の前に広がるのは、あの息が詰まるような閉ざされた自室ではなく広大な草原だった。
風に撫でられ首をもたげる草花。雲がまだらに流れる青い空。
その景色を形容するなら、天国か。あるいは夢の中かもしれない。
服装に変化はなく、くたびれたTシャツと短パンを変わらずに着ていた。周囲を見回してもそれ以外には何もない。あの部屋を埋めていたはずのジャンルにまとまりがない本や、捨て損ねたゴミの山は跡形も無くなっていた。
立ち上がって辺りを見渡す。
仮にここが死後の世界であるとして、意外にも神や天使はいないらしい。それどころか自分以外の人間も見当たらない。
どうして俺はこんなところにいるんだったか。体感で言うとつい数分前のことを振り返る。
たしか俺は、自室で首を……。その後の記憶はなく、そのまま瞬きをしたらここにいた。そんな感覚だ。
ただ座っていることもできず、前に向かって歩き出す。澄んだ空の下で不思議と息苦しさは消えていた。地面を裸足で歩く。足の腹に小石が刺さる感覚がして立ち止まりたくなった。
それでも歩き続けたのは一人が不安だったからだ。
「痛い……」
その小さな痛みだけが、目の前に広がる全てを夢だと言い切ることができないたった一つの原因だった。風は涼しいが日差しが強い。額に汗が滲む。運動不足の身体では少し歩くだけで息が上がった。
俺は死んだのか。あの暗闇の中で死んだのか。息苦しさにもがいて死んだのか。だったら、この鮮明な痛みはなんだ?
雑草がふくらはぎを引っ掻き、土や石が足裏を擦った。皮膚を貫くような痛みがする。わざわざ見ずとも足は土に塗れ血が滲んでいるのだろうと思った。
正直に言うと今すぐにでも足を止めてしまいたい。ただでさえ引きこもりな俺にとって、一人で知らない土地を歩くことすら簡単なことではないのだ。
だとしても足を止めないのは、謎の開放感に浮かされているからだろう。
そうして目的もなく歩き続けた先には、車一台が余裕を持って通れそうな幅の、草花が踏み倒された獣道があった。道の一方は薄暗い森林へと続き、もう一方はその森に沿って開けた土地へと続いている。
この道に倣って進めば、少なくとも人のいる場所へ辿り着くことができるんじゃないだろうか。
そう思うだけで肩の力が抜ける。それと同時に強い疲労感が全身を襲った。どうやら俺のなけなしの体力は、体感三十分の歩行だけでひどく消耗してしまったらしい。
ひとまず休憩するべく、手頃な大きさの岩に腰を下ろす。
怪我をしていたとしてこんな場所では応急処置もできないが、なんとなく痛みが引いてきている足を確認した。
あれだけ地面を踏み荒らしたはずの足。それがどういうわけか、泥が付着しているくらいで全くの無傷だった。
案外人間の皮膚は分厚いらしい。
目に見える怪我は一つもなく、段々と心も落ち着いてくる。それでも歩けるほどの体力はすぐには戻ってこない。
これからどうしようかと途方に暮れたところで、どこからか声が聞こえた。
森の奥だ。森の奥から幼い子供の声がする。
「人だ……!」
森の中に村でもあるのかもしれない。小さな子供だったとしても今の俺からすれば貴重な道標だ。まだ休みたがっている身体に鞭を打ち、道を頼りに森の中へと進んだ。
森の中は少しだけ翳っていて涼しかった。ガサガサと葉の揺れる様子から察するに、この森には動物が生息しているらしい。数種類鳥の鳴き声も聞こえてきたがどれも聞き馴染みがなかった。
また息も上がり始めた頃。背の高い木々の間に動く影を見た。そこで初めて猪や熊の可能性を考えて背筋が凍る。速まる鼓動を抑えて、木々の隙間へ視線をやった。
「こっちだよ」
少女のような黒い人影がこちらへ手招きしている。化かされている気持ちになりながら、従順にその影を追いかけた。
獣道から離れ、近づくほどに遠ざかっていく少女の後ろ姿を追う。
気がつけば木に囲まれた花畑へ辿り着いていた。
無我夢中で追っていた少女の姿は見えず、花畑の上にのさばる黒い塊を目にする。
「なっ……」
かき混ぜられた黒色の臓物に似た何かから、幾本もの蔦が生え活発にうごめいている。
異形のそれは口とも目とも形容し難い器官を歪ませて笑っていた。悪意なんて一切感じず、幼児のような無邪気さを帯びている。
現実味のない存在に狼狽えていると、何かはその体で花を飲み込みながら足元まで這ってきていた。
その塊が動くたびに生肉を握りつぶしたかのような不快な音がする。
「あっ、う……うわっ」
反射的に足を後ろへ下げ、数本下がったところで木の根に足を引っ掛けてしまった。勢いよく尻餅をつき体が硬直する。勢いよく蔦が伸ばされ剥き出しの左足に絡みついた。
「熱っ……! ぁああああ!」
それが触れた部分から熱が広がり、次第に冷えていく。表面が爛れて肉の焼ける香りがした。必死に足を振り回すが、がっしりと噛みつかれていて離れる気配がない。混乱と恐怖によって、思考は却って冷静さを保っていた。
なんなんだ、これは。俺は、このまま全身をしゃぶり尽くされ死んでしまうのだろうか。自ら手放したはずの命が今更惜しくなる。
その時だった。気味の悪い音を立てて、異形の体が破裂した。どこからか現れた淡い光の線がそれを貫いたのだ。
痛みに悶えているのか異形はしばらく地面をのたうち回って、それからすぐに大人しくなった。
「大丈夫ですか?」
光が射出された方向を見やると、長いローブを着てフードを深く被った少女が小走り気味に近づいてきていた。顔はよく見えないが砂色の髪を下の方でふたつに結んでいる。
「怪我は……ありませんね」
その言葉を聞いて足に目をやる。さっきまでは確かに痛みを訴えていた箇所が、爛れた様子もなくそこにあった。
あんなに痛かったのに擦り傷ひとつなく日の下に晒されている。
「ああっ、怖がらせてしまいましたね。えっとえっと、ペクティアは無害な人間ですよ」
彼女は一息で言い切り、慌てた素振りでフードを被り直す。
その背後からもう一人、目つきの悪い茶髪の男が現れた。彼女らは髪色こそ特徴的だが、それ以上に西洋人とも東洋人とも取れぬ顔立ちに人間離れしたものを感じた。
「ペクティア! 不用意に近づくなっての」
「お父様……」
他人の会話に混ざり込むなんて引きこもりを極めている俺に出来るはずもない。親しげな応酬に入り込めずにいると、男の方から声をかけられた。
「悪いな兄ちゃん。さっきのは口外しないでくれっと助かる」
どこか洋画の吹き替えをイメージさせる言葉遣いだ。身に纏う衣装も異国の雰囲気を漂わせている。「さっきの」と言うと……どれのことだろうか。適当に頷いておくことにした。
「それにしても見ない格好だな。アンタ、出身は…………いや、悪い。詮索することじゃあないな」
「えっと……」
正直に出身地を言っても良かった。しかしわざわざ詮索を避けた事を考えると、彼の方には詮索されたくない理由があるのかもしれない。
どう返すべきか悩んで結局なにも言えず目を逸らしてしまう。コミュ障ここに極まれり、だ。
「俺はアクタルクス。んで、こっちは娘のペクアトルシアだ」
「ですです! ペクティアです」
少女は紹介されるなりローブの裾を摘んでくるっと回ってみせた。
流暢な日本語の割に洋風な響きの名前だ。さっきの異形や閃光と言い、いよいよ嫌な予感がしてきて冷や汗が出る。
俺はいまだに現状が上手く掴めていなかった。
——もしここが夢でも死後の世界でもなかったら?
穏やかな痛みの余韻。汗ばんだ肌の不快感。それらが現実のものであると言うなら、それは俺にとって最悪の可能性だ。
「アンタの名前も聞いていいか?」
「あっ。か、海斗です」
喉を絞るように答えると、アクタルクスは明るい表情で「カイトか、よろしくな」と言って背中を叩いてくる。これはけっこう……いや、かなり苦手なタイプだ。
——だとしても、だ。道もわからず頼れる人間もいない今、この機会を逃せば未来は遠ざかるだろう。
「ここって……どこ、ですか」
それは今世紀最大の生存本能によって、やっとこさ発することができた言葉だった。




