第三十七話 60進法(セクサジェシマル)の泥板と『整数オーバーフロー』
自らの最大戦力であるデーモンが、システム自身の自食作用によってデリートされる光景を見届けてもなお、アルキテクトゥス・ウェルスの口元に張り付いた嘲笑は消えなかった。
アルキテクトゥス・ウェルス
「素晴らしい。私が構築したガベージコレクションの仕様を逆手に取り、見事にプロセスをキルしてみせたな。0と1のスイッチングで世界を読み解く……お前たち現代のプログラマーの『二進法』の極致だ。」
アルキテクトゥスがパチン、と指を鳴らすと、エドゥブバの空間を構成していた緑色のデータストリームが、突如としてサングイニャ(血と泥の赤茶色)の濁流へと変色した。空間に浮かぶ楔形文字が、現代のコンピューターサイエンスではあり得ない複雑な幾何学模様へと再構築されていく。
魔法使いマーリン
「なんという魔力の密度だ……! 太郎よ、空間の演算法則そのものが書き換えられているぞ! 我々の知る魔法の論理式が通用せん!」
佐藤太郎
「……なるほど。二進法じゃ限界があるってことですか。あんたがこの最下層環境で使っているのは、10でも2でもない……古代メソポタミアの『60進法』だ。」
アルキテクトゥス・ウェルス
「いかにもオンとオフしか持たない貧弱な二進法とは違い、60進法は並列処理における約数の多さにおいて絶対的な優位性を持つ。これより私のコマンドは、お前の30倍のルートに分岐して並列実行される。……システム通貨、1万シェケルを前借り(アロケート)。展開せよ、インフィムス・アンゲルス(最下位の天使)の群れよ!」
赤茶色の泥板の海から、無数の無機質な天使型プログラムが湧き出した。一体一体は先ほどのアドラメレクのような巨大プロセスではない。だが、60進法による並列処理で増殖したその数は数千万が回避不能の全方位から佐藤太郎の座標へ向けて殺到する。
佐藤太郎
「数千万の同時アクセス(DDoS攻撃)ですか。確かに、これだけの数の判定をジャストガードで弾くのは、人間の反射神経じゃ無理ですね。」
魔法使いマーリン
「太郎! 防壁の展開が間に合わん! このままではお前の存在が食い破られるぞ!」
佐藤太郎
「マーリンさん、俺の纏っているビアンコ・ペルラ(真珠の白)の防壁を、今すぐ完全に解除してください。」
魔法使いマーリン
「なっ!? 気は確かか! むき出しの『裸の騎士』となって、全方位からの攻撃をその身に受けると言うのか!」
佐藤太郎
「昔やり込んだ名作アクションRPGに、ある歴史的なバグがあってね。システムの防壁に頼るより、身一つで弾幕に飛び込んだ方が『安全』な場合があるんです。」
マーリンが悲鳴を上げながら防壁を解除した瞬間、数千万のインフィムス・アンゲルスが佐藤太郎の肉体に殺到した。ガガガガガガガッ!! という凄まじいエラー音が鳴り響き、太郎のHP(耐久変数)の数値がコンソール上で異常な速度で減少していく。
アルキテクトゥス・ウェルス
「愚かな、自ら当たり判定を広げ、致命傷を重ねるとはな。お前の耐久値など、瞬きする間にゼロになるぞ!」
佐藤太郎
「ゼロ……? 残念ですが、あんたの古いシステムじゃ、俺のダメージ計算はそこで止まらない。」
次の瞬間、太郎の耐久値を示すカウンターが「2,147,483,647」という数字を叩き出した。それは、32ビットの符号付き整数(Integer)が表現できる『最大値』である。
アルキテクトゥス・ウェルス
「な、に……!? 耐久値の減少速度が、システムの上限を突破しただと!?」
数千万のプロセスによる同時攻撃という極端な負荷が、単一のフレームに重複して処理された結果――佐藤太郎の耐久値は最大値を振り切り、カウンターが反転した。
『 -2,147,483,648 』
マイナス表示。システム上、ダメージがマイナスになったということは、すなわち「回復」あるいは「絶対的な無効化」を意味する。
佐藤太郎
「IT用語で『整数オーバーフロー』。計算結果が変数の型の上限を超え、意図しない数値にループしてしまう不具合です。」
サングイニャの濁流の中で、無防備なはずの佐藤太郎は傷一つ負わずに立っていた。数千万の天使たちがどれほど彼を攻撃しようとも、オーバーフローを起こしたシステムは、彼へのダメージを「莫大な回復処理」として誤認し続けている。
佐藤太郎
「アクションゲームにおいて、被弾判定が重なりすぎた結果、ダメージ計算がバグって逆に『無敵状態』になる現象は、歴史的に見ても珍しいことじゃない。……外部ツール(チート)を使ったわけじゃないですよ? あんたが作った世界の、計算式の仕様通りに遊んであげただけだ。」
アルキテクトゥス・ウェルス
「き、貴様ァ……! 創造主たる私のアーキテクチャを、ただの遊び道具の不具合と同列に扱うか!」
佐藤太郎
「60進法だろうがなんだろうが、メモリと変数の限界が存在する以上、底は見えている。……さあ、無敵時間のバグ技が発動している間に、そっちのコア(本体)を物理的に破壊させてもらいますよ。」
無敵のバグを纏った「裸の騎士」は、焦燥に顔を歪ませる創造主へ向けて、ハッキングの次元を超えた反撃の一歩を踏み出した。




