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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.84




写真の中にある印から、目が離せなかった。

湿った土。

水門の近く。

遺体から、ほんの少し離れた場所。

そこに残された、小さな線。

私は写真を持ったまま、しばらく動けなかった。




「……同じだ」




自分でも驚くほど、小さな声だった。

斑は何も言わない。

私はもう一度、写真を見る。

線の数。

曲がり方。

中心に残った小さな空白。

外側へ伸びる細い線。

母さんの記録に残されていたものと、ほとんど同じだった。

そう、ほとんど。

その言い方をしたのは、まだ完全に同じだと断定したくなかったからだ。

紙に残されたものと。

土の上に残されたもの。

書いたものと。

誰かが現場に残したもの。

それぞれの形には、微妙な違いがある。

けれど。

見間違えるほどではない。




私は写真を持ったまま、記憶を辿った。

母さんの記録。

何度も書き直された線。

その横に残されていた短い言葉。




_____印について、確認。




_____水辺。




_____死者。




_____東。




あのときは、ただの調査記録だと思っていた。

でも。

今、目の前にある。

紙の上ではなく。

誰かが死んだ場所に。

私は写真を机の上に置いた。

そして、母さんの記録を取り出した。

何度も開いたせいで、紙の端は少し柔らかくなっている。

折り目も増えた。




私は頁をめくった。

一枚。

二枚。

三枚。

該当する頁を探す。

見つけた。

そこに、印がある。

筆で描かれた線。

私は写真と紙を並べた。

左に母さんの記録。

右に現場写真。

しばらく、黙って見比べる。

同じだった。

完全に同じ、と言っていい。

少なくとも。

偶然似ただけとは思えない。




私は指先で、紙の上の印をなぞった。

母さんは、これを見た。

そして。

誰かに尋ねた。

何度も。

その印について。

水について。

死者について。

私は今まで、母さんは教団を調べていたと思っていた。

でも違った。

母さんは教団そのものだけを追っていたわけではない。

その中にある何か。

教団が扱っている何か。

あるいは、教団よりもっと前から存在している何か。

それを探していた。

そう考え始めたのは、つい最近だった。

そして今。

その「何か」の一つが、死体のすぐそばに残されている。




「斑」

「何だ」

「この印について、知ってるんでしょ?」




少しの沈黙。

斑は写真を見たまま答えた。




「見たことはある」




私は顔を上げた。




「……どこで?」

「昔だ」

「どのくらい昔なの?」

「詠月さんがまだ生きていた頃だ」

「つまり、母さんが調べていた頃?」




斑は答えなかった。

それだけで、十分だった。

私は紙の上の印を見る。




「じゃあ、やっぱり母さんが見たものと同じ…」

「そうかもしれない」

「そうかもしれない?」




私が聞き返す。

斑はようやくこちらを見た。




「印だけで同じものだと決めるな」

「……」

「形が似ているだけかもしれない」

「でも」

「紗詠」




静かな声だった。




「お前が今見るべきなのは、印が何を意味するかじゃない」




私は黙った。




「まず、誰が、いつ、どこに残したのかだ」




その言葉が、胸に残った。

誰が。

いつ。

どこに。

私はもう一度、現場写真を見る。

印は地面に残っている。

その周囲には、いくつかの足跡がある。

けれど。

印そのものを踏んだ跡はない。

誰かがそこを避けて歩いたようにも見える。




「……これ」




私は写真を近づけた。




「印の上には、泥が被っていない」




斑が覗き込む。




「周囲は湿っているのに」

「そうだな」

「雨が降ったあとなら、もう少し崩れていてもおかしくない」

「現場を確認した時刻を調べろ」

「分かった」




私は記録を探した。

発見時刻。

前日の天候。

水門周辺の状態。

雨は夜中に少し降っていた。

現場は湿っていた。

けれど、印の線は比較的はっきり残っている。




「……古いものじゃない」




思わず呟いた。

斑がこちらを見る。




「どうしてそう思う?」

「線が残りすぎている」




私は写真を指した。




「少なくとも、何日も前からそこにあったものには見えない」

「地面の状態による」

「うん」




私は頷く。




「だから、断定はできません」




それでも。

胸の奥に、別の感覚が生まれていた。

母さんの記録にあった印。

昔、斑が見た印。

そして。

今日、東の水門に残されていた印。

もし同じものなら。

これは過去のものではない。

今も誰かが使っている。




私は母さんの記録をもう一度めくった。

印の近くに、いくつかの記述がある。

日付。

場所。

聞き取りの内容。

そして、過去の事件についての記録。

私は一つの頁で手を止めた。

そこには、古い死亡記録の写しがあった。

名前。

年齢。

死亡場所。

死因。

東の水門。

また、その名前がある。

私は息を止めた。




「……これ」




母さんが調べていた死者。

教団とは直接関係があるとは書かれていない。

ただ。

水辺で見つかった。

死因には不自然な点が残っていた。

そして、その記録の余白に。

小さく。

印が描かれている。

私は写真と記録を並べた。

今度は三つ。

現場写真。

母さんの記録。

過去の死亡記録。

同じ形。




私はしばらく、何も言えなかった。

過去の事件。

母さんの調査。

今回の死。

それらの間に、同じ印が存在している。

けれど、それだけではまだ何も分からない。

印が死因を示しているのか。

場所を示しているのか。

誰かを示しているのか。

あるいは。

単なる合図なのか。

私は考える。

もし、この印がずっと昔から存在していたのなら。

古い記号なのかもしれない。

教団の教えに使われているものなのかもしれない。

水へ還るという思想を表しているのかもしれない。

でも。

それなら。

なぜ。

今回の現場にもある?




私は立ち上がった。

もう一度、現場写真を確認する。

印の周囲。

泥。

草。

石。

水。

そして、遺体。

何かを置いた形跡はない。

紙もない。

札もない。

文字もない。

あるのは、印だけ。

まるで。

誰かがそこに、わざわざ残したように。

私はそのことに気づいて、背筋が冷えた。




「……斑」

「何だ」

「この印って」




言葉を選ぶ。




「誰かが、意図的に残した可能性はあるよね」




斑はすぐには答えなかった。




「可能性はある」

「事故でできた傷ではない?」

「形を見る限り、自然にできたとは考えにくい」




私は写真を見る。

線は一定している。

途中で途切れているところもあるけれど、全体として一つの形になっている。

何かの道具。

あるいは指。

硬いものを使って描いたのかもしれない。




「じゃあ」




私は喉を鳴らした。




「今も、この印を使っている人がいる?」

「そう考えることはできる」

「……」

「だが、それもまだ推測だ」




私は頷いた。

推測。

それは分かっている。

けれど。

母さんの記録には、昔の印がある。

斑も、昔見たことがある。

そして今日。

同じ印が、また現れた。

それなら。

これは過去の遺物ではない。

誰かが今も知っている。

誰かが今も使っている。

もしかしたら。

母さんが亡くなったあとも。

ずっと。




私はその考えに気づいた瞬間、胸の奥が冷たくなった。

母さんの調査は、終わっていた。

記録も途切れている。

でも。

印は消えていない。

母さんがいなくなったあとも。

同じ形が残っている。




その日の夕方。

私は一人で記録室にいた。

窓から差し込む光が、棚の間に細長く落ちている。

古い紙の匂い。

乾いた木の匂い。

遠くで誰かが書類を整理している音。

私は机の上に、三つの記録を並べた。

母さんの記録。

過去の死亡記録。

今回の現場写真。

三つの間にあるものは、一つ。

あの印。




私は紙の上の線を見つめた。

母さんは、この印を見た。

過去に死んだ人の記録にもあった。

斑も知っていた。

そして今日。

新しい死体のそばに残されていた。

それなら。

誰かが、今もこの印を知っている。

使っている。

残している。

その可能性は、もう無視できない。

私は筆を置いた。

窓の外では、夕暮れの光が水面に反射している。

遠くで鳥の声がした。




私はふと、母さんの最後の記録を思い出した。

あの人は、何を見つけようとしていたのだろう。

何を知ろうとしていたのだろう。

そして。

どこまで知っていたのだろう。

私は印を見つめる。

過去から現在へ。

紙から現場へ。

母さんから私へ。

一本の線が、時間を越えて続いているように思えた。

けれど、その線の先に誰がいるのかは分からない。

教団なのか。

教団に関わる誰かなのか。

それとも。

教団よりもっと前から、この印を使っていた別の誰かなのか。




私は写真をそっと裏返した。

そして、もう一度考えた。

この印は、誰かが残した。

私はまだ、その「誰か」を知らない。

机の上の記録に手を置く。

母さんの文字に触れる。

指先に、紙のざらつきが伝わってくる。

私は静かに息を吸った。

そして。

心の中で、初めてその問いを形にした。




_____これは……誰が残したの?




答えは、どこにも書かれていなかった。




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