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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.83




その知らせが届いたのは、朝とも昼ともつかない、薄い光の時間だった。

検死室へ続く廊下には、まだ夜の冷たさが残っていた。窓の外は曇っている。

雨は降っていない。

それでも空気には水気が多く、窓硝子の向こうに見える建物の輪郭が、いつもより少しだけぼやけていた。




私は記録用の紙を抱えたまま、廊下の途中で足を止めた。

向こうから、役人が一人歩いてくる。

いつもより足が速い。

私の前まで来ると、その人は一度だけ息を整えた。




「紗詠」

「はい」

「斑が呼んでる」

「……検死ですか?」

「そう」




短い返事だった。

私は持っていた紙を持ち直した。




「どんな遺体ですか?」

「男。五十代くらい」

「身元は?」

「分かってる。璃久っていう人だ」




聞き慣れない名前だった。




「どこで?」

「東の水門の近く」




その瞬間。

胸の奥が、かすかにざわついた。

東の水門。

母さんの記録。

何度も書かれていた場所。

私は無意識に紙の端を握った。




「……事故ですか?」




役人は少し考えてから答えた。




「今のところは、そういう扱いだな」

「自然死の可能性も?」

「あるらしい。現場を見た人間の話だと、大きな外傷はなかったって」

「そうですか」




そこまで聞いて、私は一度頷いた。

けれど、役人はその場を離れようとしてから、ふと思い出したように言った。




「あぁ、そうだ」

「はい?」

「この人、あの辺りでよく水辺の掃除を手伝ってたらしい」

「水辺の掃除……」

「それと、葬儀の手伝いもしてたって」




その言葉に、私は顔を上げた。

葬儀。

死者。

水辺。

頭の中で、母さんの記録が一瞬だけ開いた。

けれど、まだ何も言わない。

役人も、特別な意味を込めた様子ではなかった。

ただ、身元について知っていることを伝えているだけだ。




「……その人、燈骸教団に関わっていた人ですか?」




私が聞くと、役人は少しだけ目を瞬いた。




「燈骸教団…?」




首を傾げる役人。

その名前を知らないのか。




「いえ…何でもありません」

「とにかく、そういう集まりに出ていたらしい。俺は詳しく知らないけど」




その言い方には、警戒も嫌悪もなかった。

街にある、いくつかの団体の一つ。

その程度の認識なのだろう。

私は頷いた。




「分かりました」

「斑が待ってる」

「はい」




役人が去っていく。

その背中を見送りながら、私はしばらく動けなかった。

東の水門。

燈骸教団。

そして、死者。

今まで私は、それぞれを別々に追っていた。

母さんの記録を読み。

教団の人々を見て。

祈りの言葉を聞いて。

水辺を歩いて。

それでも、どこかで全部がつながっているような気がしていた。

でも。

それを自分から繋げてはいけないとも思っていた。

分からないものを、分かったことにする。

それが一番危険だ。

私は小さく息を吐いて、検死室へ向かった。

今は、死体を見る。

それだけでいい。




◇




扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。

いつもの匂い。

消毒液。

金属。

湿った布。

そして、死体のある場所特有の、静かな空気。

斑はすでにそこにいた。

台の上には白い布をかけられた遺体がある。

斑は記録用紙に目を落としていた。

私が入ってきたことに気づくと、顔を上げる。




「来たか」

「お待たせ」

「話は聞いたか?」

「東の水門で見つかった男性だよね」

「あぁ」

「璃久さん」




私が名前を口にした。

その瞬間だった。

斑の指が、紙の上で止まった。

ほんの一瞬。

ほんのわずかな間だった。

けれど。

私は見た。

斑は顔を上げなかった。

ただ、紙の端を押さえていた指に、少しだけ力が入った。




「……知ってるの?」




私が聞く。

斑は数秒黙ってから、答えた。




「名前は聞いたことがある」

「教団の人…だよね」

「…知ってるのか」

「調べてたから」




私は斑の顔を見る。




「どんな人だったの?」

「……」




斑はすぐには答えなかった。

やがて、白い布のかかった遺体へ目を向ける。




「それは、今から見る」




それだけだった。

私は少しだけ眉を寄せた。

聞きたいことは、まだいくつもある。

斑がどこで名前を知ったのか。

いつから知っていたのか。

璃久が教団で何をしていたのか。

母さんと接点があったのか。

けれど。

今、それを聞くのは違う気がした。

目の前には死体がある。

検死役として最初に見るべきなのは、生きている人間の記憶ではない。

死んだ人間が残したものだ。

斑が布をめくった。

私は息を整えた。




「まず、死体を見る」

「うん」




男だった。

五十代半ばほど。

髪には白いものが混じっている。

頬は少し痩せていて、口元には深い皺があった。

額にも細かな線が刻まれている。

服装は簡素だった。

作業用らしいシャツ。

その上に薄手の上着。

ズボン。

靴。

どれも高価なものではない。

けれど、粗末というわけでもない。

普段から水辺で作業することが多かったのだろう。

ズボンの裾には泥が付いている。

靴も湿っている。

私はまず、全体を見る。

頭。

顔。

首。

胸。

腹。

腕。

脚。

大きな外傷はない。

目立った出血もない。

骨の形に明らかな異常もない。

顔には、激しい苦痛を示すような表情は残っていなかった。




「……大きな外傷はなさそうだね」

「そうだな」




斑は淡々と答える。

私は記録を取る。

年齢。

性別。

身長。

体格。

衣服。

外表所見。

一つずつ。




「事故の可能性は?」

「ある」

「自然死も?」

「ある」

「……まだ、分からない」

「そういうことだ」




私は頷いた。

死体を見ただけで、死因を決めてはいけない。

特に、外傷が目立たない死体ほど慎重になる必要がある。

何もない。

その「何もない」が、本当に何もないのか。

それとも。

見つけられていないだけなのか。

私は遺体の頭部から確認を始めた。

頭皮。

耳。

顔面。

眼瞼。

鼻。

口腔。

首。

大きな外傷はない。

首にも、明瞭な圧迫痕は見当たらない。

私は小さく息を吐いた。




「頭を打った可能性は?」

「現場写真では、強く打った形跡はない」

「転倒そのものは?」

「否定できない」

「でも、それが死因とは限らない」

「その通り」




また一つ、記録する。

転倒の可能性。

頭部外傷、明らかなものなし。

首部、明らかな外傷なし。

私は筆を動かしながら、ふと思った。

さっき斑が見せた一瞬の反応。

璃久という名前。

教団。

それを思い出す。

けれど、今は考えない。

死体に意味を足してしまいそうだったから。




私は一度、頭の中を空にした。

この人が教団員であること。

母さんが教団を調べていたこと。

この人が東の水門で死んだこと。

全部、事実だ。

でも。

それらが同じ原因から生まれたことは、まだ証明されていない。

だから私は、死体を見る。

遺体を仰向けから横向きへ変える。

背中に死斑がある。

紫紅色。

重力に従って広がっている。

大きく不自然なものはない。

私はその状態を確認してから、皮膚を一つずつ見ていく。

背中。

腰。

肩。

腕。

手。

そして。




「……ここ」




私は遺体の左足首を指した。

細い擦過傷がある。

赤黒い線状の痕。

一部分だけ、皮膚が擦れている。




「浅いな」




斑が言った。




「うん」

「靴でできた傷かもしれない」

「でも、靴の縁とは位置が合わない」




私は靴を外して比べた。

確かに、完全には一致しない。




「何かに引っかけた可能性は?」

「ある」

「水門の金具とか?」

「現場を確認する必要がある」




私は記録する。

左足首。

浅い線状擦過傷。

原因不明。

可能性として、接触物によるもの。

原因不明。

その言葉を見ると、私は少しだけ安心する。

分からないものを、分からないと書ける。

それが記録の意味だと思う。




次に衣服を確認した。

上着の袖。

襟。

背中。

裾。

ズボン。

ポケット。

靴。

泥の付着状態。

水分。

私は衣服を確認しながら、少しずつ違和感を覚えていた。

濡れ方が均一ではない。

ズボンの裾はかなり湿っている。

靴も濡れている。

けれど、上半身はそれほどでもない。




「水に落ちたわけじゃない?」




私が呟く。

斑が衣服を見る。




「まだ何とも言えない」

「うん」

「水辺にいた時間が長ければ、これくらいになる可能性もある」

「そうだよね…」




私は頷く。

それでも、目が離れなかった。

水。

この死体には、確かに水の痕跡がある。

けれど。

水に関係する死体と、水辺にいた死体は同じではない。

そこを混同してはいけない。

私は靴底を確認した。

泥。

細かな砂。

そして、爪の間にも黒いものが入り込んでいる。




「手を見るね」

「頼む」




私は右手を持ち上げた。

指先。

爪。

爪の根元。

皮膚。

目立った傷はない。

けれど、爪の内側に泥がある。

それだけなら不自然ではない。

水辺で作業していた人なら、当然だ。

私はその泥をよく見る。

黒っぽい。

その中に、細かな灰色の粒が混じっていた。




「……これ」




斑が覗き込む。




「採取する」




私は器具を用意する。

微細な痕跡。

目立たないもの。

誰かが見れば、ただの泥にしか見えない。

けれど。

死体に残るものは、ときに、その人が最後に触れた場所を教えてくれる。

私は採取して記録する。

爪下付着物。

泥状物。

細粒状物。

採取。

それだけ。

まだ意味はつけない。




耳の後ろ。

首筋。

肩。

私は皮膚の状態を確認していく。

そのとき、耳の後ろに小さなものが付着しているのに気づいた。

白っぽい。

泥とは少し違う。

指先で触れることはせず、器具で確認する。




「これは?」




斑が見る。




「採る」




私は採取した。

水分を含んだような微細な粒子。

私はそれを記録する。

そこで、鼻先にかすかな匂いを感じた。

湿った石。

水路の縁。

長く濡れた土。

そんな匂い。




「水の匂いがする」

「水辺にいたなら当然だ」

「……うん」




分かっている。

分かっているけれど。

なぜか気になった。

私は遺体をもう一度見る。

服。

靴。

泥。

爪。

耳の後ろ。

足首。

一つ一つを思い返す。

どれも決定的ではない。

事故でも説明できる。

自然死でも説明できる。

水辺にいたことでも説明できる。

だからこそ、私は慎重になった。

一つの痕跡だけで、物語を作ってはいけない。

それは検死ではない。

ただの想像だ。




私は記録用紙に視線を落とした。

そこには、事実だけが並んでいる。

私は、その事実から目を逸らさない。

検死が進むにつれて、時計の音が大きく聞こえてきた。

カチ。

カチ。

カチ。

私は何度も記録を見返した。

大きな外傷なし。

死斑に大きな矛盾なし。

衣服の一部に水分。

靴底に泥。

爪下に泥と細粒。

左足首に浅い擦過傷。

耳の後ろに微細な付着物。

そして。

東の水門。

私はその言葉を頭の中で繰り返した。

東の水門。

母さんの最後の記録。

私は思わず、斑を見る。




「斑」

「何だ」

「この人が教団に関わっていたことって……どのくらい前からなんですか?」




斑は少し考えた。




「分からない」

「記録には?」

「ある程度はある」

「母さんも?」




その瞬間。

斑の目が、私を見る。

ほんの一瞬。

けれど、今度ははっきり分かった。

警戒。

それに近いもの。




「……母親のことは、今は関係ない」

「でも」

「検死を続けろ」




静かな声だった。

怒っているわけではない。

拒絶しているわけでもない。

ただ、これ以上は話さないという意思だけがあった。

私は唇を閉じた。

斑は、やっぱり何かを知っている。

その確信だけが残った。

でも。

今は追及しない。

死体の前で、生きている人間の秘密を暴こうとするのは違う。

私は視線を遺体へ戻した。




「……」




そして、もう一度見る。

璃久。

五十六歳。

燈骸教団に関わっていた。

東の水門で発見された。

事故か。

自然死か。

それとも。

まだ別の可能性があるのか。

答えは出ていない。

だから、調べる。




検死が一区切りついたところで、斑が現場写真を取り出した。




「これを見ろ」




数枚の写真だった。

私は受け取る。

東の水門。

湿った地面。

草。

石。

水面。

遺体。

写真の中でも、風景は静かだった。

水は流れている。

何も知らないように。

その場所で誰かが死んだことさえ、気にしていないように。




私は一枚ずつ写真を確認した。

遺体の位置。

足元。

周囲の草。

泥。

靴跡。

水際。




「……」




私は四枚目で止まった。

遺体から少し離れた場所。

湿った泥の上。

何かがある。

最初は、ただの傷跡に見えた。

水が引いたあとに残った線。

誰かの靴が踏みつけた跡。

枝で引っ掻いた跡。

けれど。

私は知っている。

この形を。

何度も見た。

母さんの記録。

折り畳まれた紙。

あの印。

胸の奥が、急に冷たくなった。




「……これ」




声が漏れた。

斑は黙っている。

私は写真を近づけた。

線が重なっている。

円のようで。

円ではない。

文字のようで。

文字でもない。

母さんは、この印を追っていた。

街で誰かに尋ねていた。

水について。

死者について。

東の水門について。

そして。

今。

その印が。

一人の死者のすぐそばに残っている。




私は写真を持つ手に力を込めた。




「斑」

「……何だ」

「これ」




声が震える。




「母さんの記録にあった印と同じ」




斑は答えなかった。

ただ、写真を見る。

その表情は、いつもとほとんど変わらない。

けれど。

私は知っている。

さっき璃久の名前を聞いたときも。

母さんの話を出したときも。

斑は、ほんの少しだけ反応した。

そして今。

印を見ても。

何も言わない。

それが、かえって怖かった。




私は写真から目を離せなかった。

教団。

水。

東の水門。

死者。

母さんの記録。

今まで別々だったものが。

初めて、一つの死体の前で重なった。

私は息をゆっくり吐いた。

まだ、何も分からない。

この印が何を意味するのかも。

誰が残したのかも。

璃久の死と関係があるのかも。

分からない。

だからこそ。

私は記録する。

見たものを。

残っているものを。

死んだ人間が残した、小さな痕跡を。

そして。

その先に何があるのかを。




私はまだ知らなかった。

ただ一つだけ。

確かなことがある。

母さんが最後に追っていたものは。




もう、過去の記録の中だけではなかった。




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