第三章 教団 ep.85
記録の整理が終わった後も、私はすぐには部屋を出られなかった。
記録用紙は、もう片づけた。
器具も所定の場所へ戻した。
遺体も、次の処置へ移されている。
やるべきことは終わっている。
それなのに。
頭の中だけが、終わっていなかった。
机の上には、現場写真が一枚残っている。
東の水門。
湿った地面。
遺体。
そして、そのすぐそばに残された印。
私はそれを見つめていた。
線は細い。
写真の中では、ほんの小さなものにしか見えない。
けれど。
私にとっては、違った。
母さんの記録にあった印。
過去の死亡記録に残されていた印。
そして今日。
新しく、一人の死者のそばに現れた印。
三つを並べれば。
ただの偶然だとは思えなくなる。
でも。
だからといって、何なのかは分からない。
それが一番、気持ち悪かった。
私は写真を裏返した。
それでも、頭から離れない。
「まだ帰らないのか」
背後から声がした。
振り向く。
斑がいた。
いつからそこにいたのか分からなかった。
「……うん」
「もう記録は終わってる」
「分かってる」
「なら、帰れ」
「斑」
私は呼び止めた。
斑が足を止める。
「今回の遺体について、少し聞いてもいい?」
「何を」
「璃久さんのこと」
斑は答えなかった。
私は続ける。
「教団に関わっていたんだよね?」
「…そうだな」
「いつから?」
「詳しくは知らない」
「でも、名前は知っていた」
「聞いたことがあるだけだ」
「それは、いつ?」
沈黙。
斑は答えない。
私はその横顔を見る。
いつもと変わらない。
表情は薄い。
声も静かだ。
けれど。
今までとは少し違った。
何かを隠しているというより。
何を話すべきかを考えている。
そんな沈黙だった。
「……母さんも、璃久さんを知っていた?」
斑の目が動いた。
ほんの少し。
それだけだった。
「分からない」
「母さんの記録には、名前がなかった」
「なら、そうなんだろう」
「でも」
私は写真を手に取った。
「母さんが最後に調べていた場所で、この人が死んでいます」
斑は写真を見る。
「しかも、近くにあの印があった」
「……」
「母さんの記録にもあった」
「…」
「斑も昔、見たことがある」
「あぁ」
私は息を吸った。
「じゃあ、やっぱり_____」
「紗詠」
低い声だった。
私は言葉を止めた。
斑がこちらを見る。
「急ぐな」
「……」
「今あるものだけで、全部をつなげるな」
「でも」
「母親が調べていたから、この死体も同じものだと決めるのは早い」
私は唇を噛んだ。
それは分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
目の前には、あまりにも多くの一致がある。
東の水門。
教団。
死者。
印。
母さんの記録。
それなのに。
一つひとつを別々に見れば、どれも決定的ではない。
私は写真を机に置いた。
「……じゃあ、何なんですか」
「何が」
「この印」
斑は黙った。
「母さんは、何年も前からこの印を追っていた」
「……」
「斑も知っている」
「……」
「過去の事件にもあった」
「……」
「それなのに、今日また出てきた」
私は声を落とした。
「これが、昔から残っているだけのものだとは思えない」
斑は何も言わなかった。
私は続ける。
「誰かが今も使っているんじゃないの」
沈黙。
長い沈黙だった。
記録室の外から、遠くで扉が閉まる音がした。
それ以外は何も聞こえない。
私は斑の返事を待った。
やがて。
斑がゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
私は顔を上げた。
「え?」
「そう考えた方がいい」
「……」
「少なくとも、俺はそう考えている」
初めてだった。
斑が、自分の考えを口にした。
私は思わず一歩近づいた。
「じゃあ」
「ただし」
すぐに遮られる。
「誰が使っているのかは分からない」
「教団じゃなくて?」
「それも分からない」
「じゃあ、印が教団のものだとも限らない?」
「あぁ」
その答えに、少しだけ戸惑う。
私はこれまで、印と教団が近いものだと思っていた。
でも。
斑は、それを否定した。
完全には否定しない。
ただ、決めつけることを許さない。
「教団の中に、この印を知っている人がいる可能性は?」
「ある」
「使っている人も?」
「ある」
「じゃあ……」
私は言葉を探した。
「何が分かっているの?」
斑は答えなかった。
私は待った。
しばらくして。
斑が、現場写真に視線を落とした。
「この印が、昔からあるものなのは確かだ」
「うん」
「俺が知っているだけでも、何度か見た」
「何度も?」
「……あぁ」
胸がざわついた。
「どこで?」
「水辺だ」
「全部?」
「全部ではない」
「じゃあ、それ以外はどこに?」
「それは今は言えない」
「どうして?」
「お前がまだ、知らなくていいことだからだ」
私は思わず眉を寄せた。
「それ、父さんと同じことを言ってる」
斑の表情がわずかに変わった。
「……そうか」
「父さんは、母さんのことを話してくれない」
「……」
「『それ以上、調べるな』って」
斑は黙っている。
私は写真を見る。
「斑も、私に調べるなって言う?」
しばらくして。
「……言わない」
思っていなかった答えだった。
私は顔を上げる。
「言わないの?」
「あぁ」
「どうして?」
斑は少しだけ目を伏せた。
「もう、遅いからだ」
胸が跳ねた。
「……遅い?」
「あぁ」
「何が?」
斑は答えない。
私は待った。
けれど。
斑は窓の外へ目を向けた。
夕方の光が、薄く差し込んでいる。
外は静かだった。
風もない。
それでも、窓の向こうにある水路の水だけが、ゆっくりと流れている。
私はその水を見た。
流れは止まらない。
どこから来て。
どこへ行くのか。
見ているだけでは分からない。
「……母さんは、何を追っていたの」
今度は、問い方を変えた。
「教団?」
斑は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、印?」
「それも違う」
「死体?」
「……近い」
私は黙った。
斑はしばらく考えていた。
それから。
「お前の母親は、死体から始めた」
その言葉に、胸が締まった。
「死体から?」
「あぁ」
「どういう意味」
「最初は、ただの検死だった」
私は母さんの記録を思い出した。
死者の名前。
年齢。
傷。
死因。
母さんも、私と同じように死体を見ていた。
でも。
そこから何かを見つけた。
「その死体に、何かあったってこと?」
「……あった」
「印?」
「違う」
「じゃあ、水?」
「それも違う」
私は息を止めた。
斑の言葉が、少しずつ母さんの記録と重なっていく。
死体。
水。
教団。
印。
けれど、その中心にあるものはまだ見えない。
「母さんは、それを調べていたの?」
「そうだ」
「何年も?」
「あぁ」
「そして最後に、東の水門へ?」
「……そうだ」
私は何も言えなかった。
斑が知っている。
やっぱり。
母さんの最後の動きを知っている。
それなのに。
どうして今まで黙っていたのだろう。
「じゃあ」
私はようやく声を出した。
「母さんが追っていたものは、まだあるの?」
斑は答えなかった。
長い沈黙。
私はその沈黙を待った。
待って。
待って。
やがて。
斑が低く言った。
「……昔の話じゃない」
私は息を止めた。
その言葉だけが、妙に大きく聞こえた。
昔の話じゃない。
今まで何度も聞いた。
「昔の話だ」
父さんが言った。
「昔の話だ」
斑も言った。
母さんが生きていた頃のこと。
母さんが調べていたこと。
母さんが残した記録。
全部。
私は、過去にあるものだと思っていた。
母さんが追いかけて。
母さんが残して。
母さんがいなくなったあと。
終わったものだと。
でも。
違う。
「……今も?」
私が聞く。
斑は答えた。
「終わっていない」
その声には、迷いがなかった。
私は何も言えなかった。
「教団も」
斑が続ける。
「印も」
一度、言葉を切る。
「お前の母親が追っていたものも」
私はゆっくりと顔を上げた。
「……全部?」
「全部だ」
記録室は静かだった。
死体はもうここにはない。
けれど。
さっきまでそこにあったものの気配だけが、まだ残っているような気がした。
私は机の上の写真を見る。
東の水門。
湿った土。
璃久の遺体。
そして。
そのそばに残された印。
過去の記録にあるものと同じ。
母さんが追っていたものとつながっている。
それが。
今も続いている。
私は写真を手に取った。
紙の端が、指先に触れる。
「……じゃあ、私は」
声が震えた。
「終わったものを調べていたんじゃない…」
斑は答えなかった。
私は続けた。
「母さんがいなくなったあとも、ずっと続いていたものを……調べていた」
斑は静かに目を伏せた。
「そうだ」
その一言が、胸に落ちた。
私はしばらく、何も言えなかった。
母さんの記録。
そこに残っていた文字。
何度も書き直された印。
水辺についての記述。
教団についての疑問。
そして。
最後に途切れた調査。
それらは、過去のものではなかった。
母さんの時間だけで終わっていなかった。
今も。
どこかで続いている。
私は写真を見る。
「……璃久さんの死も」
斑は答えなかった。
けれど。
否定もしなかった。
それだけで十分だった。
私は写真を胸元へ引き寄せた。
怖い。
そう思った。
今までとは違う。
母さんが何を調べていたのか知りたい。
その気持ちは変わらない。
でも。
それを知るということは。
母さんが追っていたものの続きを、自分も追うということだ。
過去を調べるのではない。
今を調べる。
その先には。
まだ生きている誰かがいる。
そして。
その誰かは、母さんの調査を知っているかもしれない。
私はゆっくり息を吐いた。
「斑」
「何だ」
「私、調べる」
斑は何も言わなかった。
止めもしない。
ただ。
少しだけ目を細めた。
「……そう言うと思ってた」
その言葉を聞いて。
私は初めて気づいた。
斑は、私がここまで来ることを。
ずっと前から知っていたのかもしれない。
私はもう一度、現場写真を見る。
印は小さい。
けれど。
その小さな線の向こうに。
母さんが追っていたものがある。
そしてそれは。
まだ終わっていない。




