第三章 教団 ep.81
その日の夜。
私は机の前に座っていた。
部屋の中は静かだった。
窓の外から、遠くを走る荷車の音が聞こえる。
車輪が石畳を踏むたびに、規則正しい音がして、それが少しずつ遠ざかっていく。
その音が消えると、部屋にはまた静けさが戻った。
机の上には、母さんの記録がある。
何度も開いて。
何度も閉じた紙。
角が少し擦れている。
紙をめくるたびに、乾いた音がする。
私はその音を聞きながら、最初の頁から読み返していた。
今までとは、少し違う目で。
東の水門。
水辺。
死体。
印。
そして、燈骸教団。
ここ数日で、私の中にある情報はかなり増えた。
街の人たちから聞いた話。
教団が行っていること。
祈りの言葉。
そして_____水へ還るという思想。
私はそれらを知った上で、もう一度母さんの記録を見ることにした。
最初の数頁には、以前と変わらない文字が並んでいる。
日付。
場所。
聞き取りをした相手。
見たもの。
そこまでは、いつもの記録だった。
けれど。
読み進めるうちに、私は少しずつ違和感を覚え始めた。
教団について書かれた頁。
私はそこに、何か強い言葉があると思っていた。
危険。
嘘。
異常。
警戒。
そういう言葉を。
母さんが何かを追っていたのなら。
教団を危険なものだと考えていたのなら。
きっと、どこかにその痕跡があるはずだと思っていた。
けれど。
なかった。
私は眉を寄せた。
頁を一枚戻す。
もう一度読む。
やっぱり、ない。
私はさらに先の頁をめくった。
そこにもない。
教団について書かれている。
けれど、その書き方は妙に淡々としていた。
_____死を終わりとは考えない。
_____人は流れの中に生まれ、死後はそこへ還る。
_____水は留まらず、形を変えながら流れていく。
_____死者は消えるのではなく、流れへ戻る。
私は文字を目で追った。
母さんの字だ。
少し右上がりで、急いで書いたところだけ文字が細くなる。
その筆跡は、私が子どもの頃から見てきたものだった。
なのに。
書いてある内容は、今まで私が想像していた母さんとは少し違って見えた。
母さんは教団を批判していない。
むしろ。
理解しようとしている。
私はそこで手を止めた。
「……どうして?」
誰もいない部屋で、声が小さく響く。
母さんは、教団を調べていた。
それは間違いない。
何度も東の街へ行って。
人に話を聞いて。
水辺を見て。
死体について調べて。
印を追っていた。
でも。
もし教団を暴こうとしていたのなら。
どうして、こんな書き方をするんだろう。
私は記録の一文を指でなぞった。
_____死を終わりとは考えない。
その言葉の横には、小さな書き込みがある。
母さん自身の考えなのか。
教団の人から聞いた言葉なのか。
そこには、はっきりとは書かれていなかった。
ただ。
その下に、一つだけ問いが書かれている。
_____なぜ、人はこの考えを必要とするのか。
私は息を止めた。
問いだった。
断定ではない。
批判でもない。
なぜ。
どうして。
何を求めて。
何を恐れて。
人はこの考え方を必要とするのか。
母さんは、それを知ろうとしていた。
私は頁をめくる。
次の頁にも、教団について書かれている。
そこには、ある信者の話が記録されていた。
家族を亡くした人。
深い悲しみの中にいたその人が、教団の考え方に救われたという話。
母さんは、その人の言葉をほとんどそのまま書き残していた。
余計な感想はない。
否定もない。
ただ、その人が何を感じたのか。
どうしてその考えにすがったのか。
何を失って、何を求めていたのか。
それだけを、丁寧に記録している。
私は頁をめくる手を止めた。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
母さんは。
こんなふうに、人の話を聞いていたのか。
私の知っている母さんは、もっと強い人だった。
父さんと一緒に家で過ごした姿。
私に笑いかけてくれた顔。
何かに気づくと、すぐに動く人だった。
でも。
記録の中の母さんは、静かだった。
相手の言葉を遮らない。
自分の考えを先に置かない。
分からないものを、分からないまま書いている。
まるで。
相手を理解することそのものが、調査の目的であるかのように。
私は記録の束を少しだけ離して眺めた。
母さんは、何を探していたんだろう。
最初は、教団だと思っていた。
印の意味。
教団の正体。
その活動。
そういうものを調べているのだと。
でも。
記録を読み返せば読み返すほど、その考えが少しずつ崩れていく。
母さんは教団の行動を書いている。
でも、その行動を裁いてはいない。
教団の思想を書いている。
でも、それを否定してはいない。
信者の言葉を書いている。
でも、それを嘘だとは決めつけていない。
むしろ。
なぜその人が、そう考えるのか。
なぜその思想を必要としたのか。
そこばかりを追っている。
私は、別の頁を開いた。
そこには、母さんが聞き取った言葉がいくつも並んでいた。
_____死は終わりではない。
_____水は巡る。
_____還るだけ。
_____残された者も、いつか流れの中へ戻る。
そして、その下に母さんの文字。
_____死者を忘れることとは違う。
私は目を見開いた。
その一文だけ、少し強く書かれている。
筆圧がいつもより深い。
紙の上に、文字の跡が残っている。
死者を忘れることとは違う。
私は、その言葉を何度も読んだ。
教団の考え方は、死者を流れの中へ戻すこと。
でも、それは死者を無かったことにするという意味ではない。
少なくとも母さんは、そう理解していた。
だったら。
私が昨日見た祈りも。
老人も。
若者も。
親子も。
あの人たちは、死者を忘れるために祈っていたわけではない。
大切な人を失ったからこそ。
その人がどこかで流れ続けていると信じることで、残された人が生きていく。
そういう考え方なのかもしれない。
私は椅子の背にもたれた。
天井を見上げる。
分からない。
でも。
少しだけ分かったこともある。
教団は、私が最初に思っていたような単純なものではない。
悪い人たちがいて。
それを母さんが追っていた。
そんな話ではない。
私はまた記録を見る。
頁の端には、いくつもの小さな書き込みがある。
その一つ一つが、母さんがここで考えた時間なのだと思った。
誰かの話を聞いて。
考えて。
また別の人に話を聞いて。
前に聞いたことと照らし合わせて。
分からないところに印をつける。
そうやって、母さんは少しずつ進んでいた。
何かを暴くためではなく。
何かを理解するために。
私はふと、父さんの言葉を思い出した。
_____分からないから、調べるんだ。
母さんも、同じだったのだろうか。
分からないから。
決めつけないために。
相手の言葉を聞いて。
その考え方を知ろうとして。
それでもなお、分からないところを追い続けた。
私は記録の最後の方をめくった。
そこには、教団についての記述がいくつか残っている。
けれど、その先で文章は途切れていた。
次の頁には、別の場所の記録。
さらにその次には、死体についての記録。
水辺。
東の水門。
印。
教団。
そして、また死体。
ばらばらに見える。
けれど。
母さんの中では、きっと繋がっていた。
私は紙を机の上に並べた。
一枚。
また一枚。
記録の束を広げていく。
部屋の灯りの下で、母さんの文字が何枚もの紙の上に浮かび上がる。
その文字を見ていると、不思議な感覚になった。
まるで母さんが、今もここで考えているようだった。
_____これは何だろう。
_____どうしてこうなるんだろう。
_____この人は、何を知っているんだろう。
そんな声が、紙の向こうから聞こえてくるような気がした。
私は目を閉じた。
そして、静かに息を吐く。
母さんは。
教団を調べていたんじゃない。
少なくとも、それだけではない。
じゃあ、何をしていたのだろう。
私はもう一度、母さんの記録を見た。
そこには、教団を否定する言葉よりも。
教団を理解しようとする問いの方が、ずっと多く残されている。
私は、そのことに気づいた。
母さんは。
教団を暴こうとしていたんじゃない。
だったら_____。
私は、ゆっくりと呟いた。
「……教団を、知ろうとしていた?」
口にした瞬間。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
でも、それが何なのかは。
まだ、分からなかった。




