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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.80




検死室を出たあとも、私はしばらく記録用の紙を持ったままだった。

紙は薄い。

少し力を入れて持てば、端が簡単に折れてしまう。

それなのに、その一枚の紙に書かれているものは、ひどく重かった。

名前。

年齢。

性別。

傷。

所見。

死因。

どれも、文字にすれば短い。

一行で済むものもある。

けれど、その一行を書くために、私は遺体を何度も見る。

傷の形を確かめる。

位置を測る。

身体に残った痕跡を探す。

分からないことは、分からないままにする。

そうしてようやく、一つの記録ができる。




私は廊下の端にある窓の前で足を止めた。

外は、少し曇っていた。

薄い雲が空全体を覆っていて、昼間なのに光が柔らかい。

窓を開けると、冷たい風が入ってきた。

遠くから、人の声が聞こえる。

荷車の車輪が石畳を擦る音。

誰かが笑う声。

店先で品物を並べる音。

生きている人たちの街は、いつも通り動いている。

誰かが朝を迎えて。

誰かが仕事へ行って。

誰かが誰かと話している。

その一方で。

検死室には、もう動かない人がいる。

私は窓を閉めた。

紙を見下ろす。

また、名前を見る。

私は、どうして名前を書くんだろう。

ふと、そんな疑問が浮かんだ。

今まで考えたことがなかった。

名前を書くのは当たり前だった。

記録を作るために必要だから。

誰の遺体なのかを明確にするため。

間違えないため。

それくらいに思っていた。

でも。

それだけなのだろうか。




私は紙に書かれた名前を指先でなぞった。

もちろん、文字そのものに命があるわけではない。

この紙を見ただけで、その人の声が聞こえるわけでもない。

笑った顔が浮かぶわけでもない。

その人が何を好きだったのかも。

どんな人生を送ってきたのかも。

この紙には書かれていない。

それでも。

名前がある。

ただの「男性」ではない。

ただの「遺体」でもない。

この人には、名前があった。

そのことだけは残る。




私は紙を裏返した。

裏には何もない。

真っ白だった。

白い紙を見ると、さっきまで見ていた遺体が頭に浮かんだ。

閉じられた瞼。

動かない指。

もう呼吸をしない胸。

生きているときなら、誰かに触れられれば何かしらの反応が返ってくる。

寒ければ身体を震わせる。

痛ければ顔を歪める。

呼びかけられれば、振り返る。

けれど、死んだ身体は何も返さない。

だから私たちは、身体に残されたものを見る。

傷を見る。

痕跡を見る。

変化を見る。

死ぬ直前に何が起きたのかを探す。

どうしてだろう。

私は、また考えた。

どうして傷を書くんだろう。

傷がある。

だから書く。

それだけのことに思える。

けれど、傷を書けば、その人の身体に何が起きたのかが残る。

誰かに殴られたのか。

倒れたのか。

刃物によるものなのか。

いつできたのか。

どこにあるのか。

一つ一つの傷が、言葉の代わりになる。

死者は、自分の口で何も話せない。

だから、身体に残ったものを記録する。

私はそれを「仕事」だと思っていた。

ずっと。

検死役として必要なことだから。

父さんに教えられたことだから。

間違えないように、正確に書く。

それが検死役なのだと思っていた。

けれど。

どうしても頭から離れない言葉がある。




_____水へ還る。




燈骸教団の人たちは、死を流れの中へ戻ることだと考えている。

死んだ人は、大きな流れの中へ還っていく。

その考え方を聞いたとき、私は怖いとは思わなかった。

むしろ、穏やかな考え方だと思った。

死を終わりにしない。

大きなものの中へ戻る。

残された人にとって、それが救いになることもあるのかもしれない。

それなら。

私はどうなんだろう。

私は、死んだ人をどうして記録する?

大きな流れへ戻っていく人を。

私は、紙の上に留めようとしているのだろうか。

名前を書いて。

年齢を書いて。

傷を書いて。

死因を書く。

まるで、その人がそこにいたという証拠を、一つずつ拾い集めるように。




私は廊下の壁にもたれた。

目を閉じる。

すると、幼い頃の記憶が浮かんだ。

父さんの書斎。

今よりずっと小さかった私は、机の端から記録用の紙を覗き込んでいた。

父さんは黙って文字を書いていた。

私はその横顔を見ながら、聞いたことがある。




『どうして、そんなに細かく書くの?』




父さんは筆を止めて、少しだけ私を見た。

そして。




『分からないものを、分かったことにしないためだ』




そう言った。

あの頃の私は、その意味を全部は分かっていなかった。

ただ、父さんが大事なことを言っているのだと思った。

今なら少し分かる。

死因を決めるということは、簡単なことではない。

間違えれば、その人がどう死んだのかという事実そのものを変えてしまう。

だから、見たものを書く。

分かったことを書く。

分からないことは、分からないと残す。

記録するというのは、ただ文字を書くことではない。

たぶん。

私はそこまで考えて、立ち止まった。




_____たぶん?




自分の中に浮かんだ言葉なのに、確信が持てない。

私はまた紙を見る。

そこにあるのは、ほんの数行だった。

名前。

年齢。

傷。

死因。

その人の人生に比べれば、あまりにも少ない。

人が何十年も生きてきた時間を、数行にしてしまう。

笑った日も。

泣いた日も。

怒った日も。

誰かと出会った日も。

誰かと別れた日も。

何かを好きになった日も。

何かを諦めた日も。

そのほとんどは、記録には残らない。

私は、その人の何を残しているんだろう。

名前だけ?

死因だけ?

身体に残った傷だけ?

それとも。

その人が確かに生きていたという事実そのもの?

答えが出ない。




私は紙を持ったまま、また検死室の前まで戻った。

扉は閉じている。

中には、さっきの遺体がある。

その人はもう、自分で名前を名乗ることができない。

年齢を言うことも。

どこが痛いと言うことも。

最後に何を見たのか話すことも。

だから、私は書く。

私が代わりに話すわけではない。

死者の気持ちを想像して、勝手に言葉にするわけでもない。

ただ、残されたものを拾う。

身体に残ったものを。

記録に残っているものを。

分かっていることを。

そして、それを紙の上に置いていく。

その作業が、何を意味するのか。

私はまだ、知らない。

けれど。

名前を書くときだけは、少しだけ違う気持ちになる。

名前は、その人が生きていた時間のすべてではない。

名前だけで、その人を知ることなんてできない。

それでも。

名前がなければ、私はその人を「誰か」としか呼べない。

誰か。

男性。

女性。

遺体。

死者。

そういう言葉だけになってしまう。

それが悪いことなのかも、まだ分からない。

仕事としては、それで足りるのかもしれない。

必要な情報を正確に記録する。

それが検死役の仕事だと、私は思っている。

でも。

私は今日、初めて思った。

もしかしたら。

私が残しているのは、死因だけではないのかもしれない。

死者が、確かにここにいたということ。

少なくとも、私が見たときにはここにいたということ。

その身体に、これだけの傷があったということ。

この名前で呼ばれていたということ。

その人の死を、誰かが確認したということ。

それらを一つずつ紙の上に残している。




私は机に戻った。

記録用紙を机の上に置く。

筆を取った。

新しい紙は、まだ何も書かれていない。

真っ白だった。

私はしばらく、その白さを見つめた。

これからここに、清書として誰かの名前を書く。

年齢を書く。

傷を書く。

死因を書く。

そして、この紙は記録として残っていく。

何年か経って。

私がこの人のことを忘れたとしても。

この紙が残っている限り、誰かがこの人の名前を見るかもしれない。

そのとき、その人は何を思うのだろう。

ただの文字を見るのだろうか。

死んだ人間の記録を見るのだろうか。

それとも。

そこにいた一人の人間を、少しだけ想像するのだろうか。

分からない。

まだ、分からない。




私は筆先を紙に触れさせた。

最初の一画を書く。

文字が一つ、生まれる。

私はその文字を見つめた。

その瞬間。

胸の奥に、ほんの小さな疑問が浮かんだ。

私は、死んだ人の何を残しているんだろう。

名前なのか。

傷なのか。

死んだという事実なのか。

それとも_____。

私は筆を止めた。

答えは出なかった。

出ないまま、私は紙の上にもう一つ文字を書いた。




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