第三章 教団 ep.79
翌日。
私は、昨日聞いた言葉について、もう少し調べていた。
_____水へ還る。
燈骸教団の人たちにとって、それは特別な言葉ではないらしい。
教団の考えでは、人は生まれたときから、大きな流れの中にいる。
水は流れる。
留まらない。
形を変えながら、どこかへ進んでいく。
人の命も、それと同じなのだという。
生きている間は、この場所にいる。
家族と暮らし、誰かと出会い、誰かを愛し、働き、食べて、眠る。
けれど、死を迎えれば。
その人は流れの中へ戻っていく。
終わるのではない。
還る。
昨日話を聞いた女性は、そう教えてくれた。
「亡くなった人は、どこへ行くと思いますか?」
私は答えられなかった。
「水へ、です」
女性は穏やかに笑った。
「水は、どこか一つの場所に留まっているものではありませんから」
それ以上、詳しい説明はなかった。
それでも、少しだけ分かった気がした。
この人たちにとって、死は断絶ではない。
ひとつの場所から、別の場所へ移ること。
流れの中へ戻ること。
だから、昨日の祈りも穏やかだったのだろう。
死を恐れていない。
少なくとも、死を「すべての終わり」とは考えていない。
私はその考えを否定するつもりにはなれなかった。
死んだ人がどこへ行くのか。
それは、誰にも分からない。
だからこそ、人はそれぞれの答えを持つ。
ただ。
私には、私の仕事がある。
それは、死んだ人を流れの中へ戻すことではない。
死んだ人が、誰だったのかを確かめることだ。
その日の午後。
私は検死室にいた。
台の上には、一人の遺体が横たわっている。
年齢は四十代。
男性。
発見されたのは朝だった。
身元はすでに分かっている。
私は記録用の紙を前に置いた。
その横には、使い慣れた筆記具。
斑が少し離れた場所に立っている。
「まず、名前」
「うん」
私は紙に書く。
名前。
その人が、生きている間に呼ばれていた名前。
次に年齢。
住所。
職業。
分かっている範囲で、一つずつ記していく。
紙の上に、文字が増えていく。
私は遺体を見る。
顔。
手。
首。
衣服。
身体に残された傷。
「傷の位置を確認」
「うん」
私は言われた通りに測る。
長さを書く。
深さを書く。
形を書く。
左右どちらにあるかを書く。
見落としがないように、もう一度確認する。
傷には意味がある。
死因にも意味がある。
その人が最後に何をされたのか。
何が起きたのか。
身体に残されたものから、一つずつ拾っていく。
私は記録を書く。
名前。
年齢。
性別。
傷。
所見。
そして_____死因。
文字を書いていると、不思議な気持ちになった。
昨日、教団の人たちは言っていた。
人は死ねば、水へ還る。
大きな流れの中へ戻っていく。
その人だけのものではなくなる。
すべての流れの中へ。
けれど。
私が今見ているのは、その反対だった。
私は、この人を一人にしていく。
名前を書く。
年齢を書く。
傷を書く。
死因を書く。
生きていたときのことを、分かる限り記録する。
この人は、この人だった。
他の誰でもない。
私はその事実を、紙の上に残していく。
「……死因、書きます」
斑が頷いた。
「確認してから」
「了解」
私はもう一度、遺体を見る。
身体に残された痕跡。
傷の位置。
内側に残された変化。
すべてを確かめる。
分からないものを、分かったことにはしない。
それも、父さんから教えられてきたことだった。
死体は嘘をつかない。
だから、私は身体に残されたものを読む。
そこには、その人が最後まで生きていた証拠がある。
私は死因を書いた。
筆先が紙の上を滑る。
その文字を見つめる。
それは、この人の人生そのものではない。
ただ、最後に起きたことの一つだ。
それでも。
書き残す。
名前も。
年齢も。
傷も。
死因も。
その人が確かにここにいたということを、少しでも残すために。
私はふと、昨日の祈りを思い出した。
_____水へ還る。
あの人たちにとっては、それが死者への向き合い方なのだ。
死者を、大きな流れの中へ戻す。
その人がそこにいたことを否定しているわけではない。
むしろ、その人の死を受け入れるために、そう考えているのかもしれない。
私はそれを、間違いだとは思わなかった。
ただ。
私とは違う。
私は死んだ人を、一人の人間として見る。
名前のある人。
年齢のある人。
傷を負った人。
生きていた時間がある人。
最後に何が起きたのかを知ろうとする。
そして、それを記録する。
大きな流れに溶かしてしまわないために。
私はもう一度、紙を見た。
そこには一人分の記録がある。
名前。
年齢。
傷。
死因。
たったそれだけの文字なのに。
その一行一行の向こう側には、この人が生きていた時間がある。
家族がいたかもしれない。
好きなものがあったかもしれない。
嫌いなものも。
笑った日も。
怒った日も。
誰かを大切にした日も。
それらは、ここには書かれていない。
それでも。
少なくとも、私はこの人を「ただの死体」にはしたくなかった。
私は筆を置いた。
検死室は静かだった。
外から、遠く水の流れる音が聞こえる。
私はその音を聞きながら、昨日の言葉を思い出した。
_____水へ還る。
そして、目の前にある記録を見る。
_____名前。
私は初めて、その二つが同じ「死」というものを見ながら、まったく違う場所を見ていることに気づいた。
教団は、死者を流れの中へ戻す。
私は、死者を一人の人間として記録する。
どちらが正しいのか。
今の私には、分からない。
ただ。
その違いだけは、はっきりと分かった。




