第三章 教団 ep.78
その日の午後。
私は、水門から少し離れた場所にある小さな建物の前にいた。
建物、と呼ぶにはあまりにも質素だった。
古い木造の壁。
低い屋根。
正面には大きな看板もなく、目立つ飾りもない。
ただ、入口の脇に小さな燈籠が一つ置かれていた。
火は入っていない。
それでも、この場所を知っている人には分かるのだろう。
人が、少しずつ集まってきていた。
私は建物から離れた場所に立った。
中へ入るつもりはなかった。
今日は、見るために来た。
聞いた話だけでは分からないものを、自分の目で確かめるために。
最初に来たのは、年配の女性だった。
ゆっくりと歩き、入口の前で一度立ち止まる。
それから、静かに頭を下げた。
続いて、若い女性が来た。
その隣には、幼い子どもがいる。
親子なのだろう。
子どもは母親の手を握りながら、少し眠そうにしていた。
「静かにね」
母親が小さな声で言う。
「うん」
子どもが頷く。
それだけだった。
誰も周囲を警戒していない。
誰かに見られていることを気にしている様子もない。
やがて、人が十人ほど集まった。
老人。
若者。
夫婦らしい二人。
親子。
仕事帰りなのか、まだ作業着を着たままの男性もいる。
見覚えのある顔もあった。
先程、街で見かけた人かもしれない。
特別な人には見えなかった。
私が街を歩いているときにすれ違った人たちと、何も変わらない。
少しして、建物の中から一人の女性が出てきた。
「今日は集まってくださって、ありがとうございます」
穏やかな声だった。
誰かを従わせるような声ではない。
大きくもない。
ただ、よく通る。
集まった人たちは、静かにその人を見る。
女性は一人ずつ顔を確かめるように見渡した。
「最近は朝晩の気温が変わりますから、皆さんも体調には気をつけてくださいね」
何人かが小さく笑った。
「あなたが一番無理をするでしょう」
「そうかもしれませんね」
また、笑い声が起きた。
私は少し驚いた。
もっと張り詰めた空気を想像していた。
決められた言葉。
厳しい規則。
誰かが一方的に話して、それを全員が黙って聞くような。
でも、違った。
そこにあるのは、もっと穏やかなものだった。
女性が建物の中へ戻る。
人々も続いて入っていく。
私は少し離れたところから、その様子を見ていた。
建物の中には、小さな祭壇のようなものがあるらしい。
正面に何かが置かれている。
けれど、ここからではよく見えない。
人々が座る。
老人も。
若者も。
親子も。
誰かに命じられたわけでもないのに、自然と同じように姿勢を正していく。
そして。
祈りが始まった。
声は大きくなかった。
一人が言葉を唱え、それに続くように皆が同じ言葉を繰り返す。
私は耳を澄ませた。
聞き取れない。
風が建物の間を抜ける音に、声が混じっている。
もう少し近づこうかと思った。
けれど、やめた。
ここからでいい。
私はただ、見ていた。
祈っている。
それだけだった。
目を閉じている人。
手を組んでいる人。
ただ静かに座っている人。
それぞれ祈り方は違う。
でも、誰もが慣れているようだった。
何度も繰り返してきたのだろう。
特別な儀式というより。
日常の一部。
朝に顔を洗うように。
食事をするように。
眠る前に灯りを消すように。
この人たちにとっては、祈ることも生活の中にあるのかもしれない。
私は、少しだけ視線を落とした。
信じること。
祈ること。
それ自体が悪いわけではない。
当たり前のことだ。
私だって、父さんや母さんの無事を願ったことがある。
死んだ人に、心の中で言葉をかけたこともある。
だから。
目の前にいる人たちを見て、怪しいとは思えなかった。
むしろ。
静かだった。
穏やかだった。
誰かを傷つけようとしているようには、到底見えない。
そのとき。
祈りの声が少しだけ大きくなった。
私は顔を上げた。
今度は、はっきり聞こえた。
「_____命は、流れの中にあり」
何人もの声が重なる。
「生まれしものは、いつか終わり」
また、繰り返される。
その言葉は、妙に静かだった。
死を恐れるような声ではない。
悲しむような声でもない。
ただ、受け入れるような。
淡々とした祈り。
そして。
最後の言葉が続いた。
「終わりしものは_____」
一瞬、風が止んだ。
「水へ還る」
私は息を止めた。
水へ。
還る。
その言葉だけが、耳に残った。
誰も驚いていない。
誰もその言葉を特別なものとして扱っていない。
祈りが終わると、何事もなかったように人々は顔を上げた。
子どもが母親の袖を引く。
「帰る?」
「もう少しだけ待って」
老人は隣の人と小さな声で話している。
「明日の掃除、来られる?」
「えぇ。朝から行くつもり」
いつもの会話。
いつもの生活。
そこにあるのは、私が想像していたような異様な光景ではなかった。
ただ。
私は動けなかった。
水へ還る。
その言葉が、どうしても頭から離れない。
母さんの記録。
水辺。
東の水門。
死体。
そして、印。
私は紙を取り出しかけて、やめた。
まだ書くべきなのか分からなかった。
この言葉が何を意味するのか。
それすら、まだ分からない。
けれど。
偶然にしては、重なりすぎている。
私は建物を見つめた。
中では、祈りを終えた人々が静かに帰り始めている。
老人も。
若者も。
親子も。
誰もが普通の顔をしている。
その姿を見ながら、私は思った。
もしかしたら。
この人たちにとっては、本当に何もおかしくないのだ。
死んだ人が水へ還ることも。
祈ることも。
この街で生きることも。
全部、同じ日常の中にある。
だからこそ。
私は余計に分からなかった。
母さんは、この人たちの何を調べていたんだろう。
私はもう一度、建物の中を見た。
そこには、ただ祈る人々がいるだけだった。
そして私は。
その中で聞いた一つの言葉だけを、何度も頭の中で繰り返していた。
_____水へ還る。




