第三章 教団 ep.76
母さんの記録を閉じたあとも、私はしばらく机の前から動けなかった。
死体。
水辺。
東の水門。
印。
そして、人々の考え。
それぞれを順番に追っていくと、最後には必ず同じ場所へ戻ってくる。
あの印。
私は紙の端に小さく描かれた形を見つめた。
見れば見るほど、ただの記号には思えなくなってくる。
けれど。
まだ分からない。
これが何を意味しているのか。
母が何を追っていたのか。
私は記録を一冊ずつ閉じ、もう一度最初から考え直した。
母さんは死体を調べていた。
その中で何かに気づいた。
だから、水辺を調べた。
東の水門を調べた。
そこで、あの印を見つけた。
そして。
印をきっかけに、人々の言葉や考え方まで調べている。
だったら。
次に必要なのは、印を知っている人に話を聞くことだった。
◇
翌朝。
私は、いつもより少し早く家を出た。
目的地は、東の街。
東の水門に近い場所にある、少し離れた街だ。
僚明の母親に話を聞きに行く時に、一度だけ斑と行ったことがある。
あのときは、仕事の用事だった。
私は斑の後ろを歩きながら、必要なものを見て、必要なことだけを聞いた。
街の名前も、道の形も、店の並びも。
そのときは、ただの景色だった。
けれど今は違う。
私は、あの街を調べに行く。
母さんが残した記録にあったものを。
東の水門。
水辺。
死体。
そして_____印。
家を出てしばらく歩くと、街の中心から離れるにつれて、人の数が少しずつ減っていった。
朝の空気には、まだ夜の冷たさが残っている。
道端には昨夜の雨でできた小さな水溜まりが残り、踏みしめるたびに靴底からかすかな水音が返ってきた。
東へ向かう道は、なだらかな下り坂になっている。
遠くに見える建物の屋根も、少しずつ低くなっていく。
その先に、水門がある。
街へ近づくにつれて、風の匂いが変わってきた。
湿った土の匂い。
古い木材の匂い。
そして、かすかに水の匂い。
道の脇に小さな水路が現れた。
水はゆっくりと流れている。
ところどころに藻が浮かび、石の隙間には細い草が生えていた。
私は足を止めた。
以前来たときにも、ここを通ったはずだ。
でも、覚えていない。
覚えていないというより_____見ていなかった。
あの頃の私は、斑について歩いていただけだった。
今は、自分の足で歩いている。
同じ道なのに、違う場所に見えた。
やがて、東の街が見えてきた。
低い建物が並び、その遥か向こうに水門の大きな影があるのはもう分かっている。
水門は街の外れの外れにあった。
巨大な門が水路を横切り、その両側には古い石壁が続いている。
水門がある周辺の街には人が集まりやすい。
船を扱う者。
荷物を運ぶ者。
水路沿いで商売をする者。
昔からこの辺りで暮らしている者。
いろいろな人間がいる。
だからこそ、私はここへ来た。
印を知っている人を探すために。
印を知っている人間なら、何かを知っているかもしれない。
私は街の入り口で一度立ち止まった。
以前来たときに見た店を思い出す。
水門へ続く大通り。
その途中にある食堂。
古い道具を扱っていた店。
水路沿いの小さな露店。
そして、少し奥に入ったところにあった、古い宿。
記憶を一つずつ拾っていく。
斑と歩いたとき、私はその後ろに立っていただけだった。
あのとき、斑は何を見ていたんだろう。
何を知っていたんだろう。
考え始めると、また斑の顔が浮かんだ。
_____その印を追うのは、やめた方がいい。
父さんも言った。
_____それ以上、調べるな。
二人とも、止めた。
理由は違うのかもしれない。
でも、二人とも知っている。
この印が、ただの印ではないことを。
私は小さく息を吐いた。
今さら引き返すつもりはなかった。
街の中へ入る。
朝の商売が始まったばかりなのか、店先には品物が並び始めていた。
魚を運ぶ人。
木箱を積む人。
水路に小舟を出す人。
それぞれが自分の仕事をしている。
誰も私を気に留めない。
それが、今はありがたかった。
私は以前、斑と歩いた道をゆっくり進んだ。
けれど今回は、斑の後ろではない。
自分で左右を見ながら歩く。
店の看板。
道幅。
水路との距離。
人の流れ。
水門までの道。
母さんは東の水門に行った。
もしここにも来ていたのなら。
きっと、何かを見ていたはずだ。
何かを聞いて。
何かを記録して。
私は母さんの記録を思い出した。
死体。
水辺。
東の水門。
印。
人々の思想。
順番は偶然ではない。
母さんは、一つずつ追っていた。
なら、私も同じように追えばいい。
まずは_____印。
私は水門へ向かう道を外れ、古い店に足を運んだ。
看板は少し色褪せている。
私はしばらく店の中を覗いた。
ここに、何かあるとは限らない。
何も知らないかもしれない。
それでも。
聞いてみなければ分からない。
私は扉を開けた。
◇
その後、何人かに聞いてみた。
けれど。
印の話を出した途端、言葉を濁される。
知らない。
見たことがない。
そんなものは知らない。
似たような答えが続いた。
それでも、何人目かのところで。
一人の男が、わずかに表情を変えた。
「……それを、どこで見た?」
「母の記録にありました」
男は黙った。
視線だけが、私の持っていた紙へ落ちる。
「母が、この印を調べていたんです」
「……そうか」
低い声だった。
「知っているんですか?」
少しの沈黙。
男は周囲を見回した。
人の姿を確認するように。
それから、声を落とした。
「その印を知っているなら……燈骸教団のことも聞いたことがあるだろう」
私は息を止めた。
燈骸教団。
その名前自体は、初めてではない。
記録の中で見たことがある。
昔の資料にも、何度か出てきた。
死について独特の考えを持つ集団。
そういう説明だけを、私は知っていた。
だからこそ。
「……燈骸教団って」
私は、手元の紙を見る。
それから男を見る。
「この印なんですか……?」
男は、すぐには答えなかった。
私の質問を否定することも。
肯定することも。
ただ、少しだけ困ったような顔をした。
「そう簡単な話じゃない」
「……違うんですか?」
「その印だけで、燈骸教団だと決めつけない方がいい」
胸の中に、わずかな戸惑いが生まれた。
「じゃあ、この印は何なんですか?」
男は答えなかった。
しばらくしてから、低く言う。
「それだけじゃない」
「……え?」
「燈骸教団を知りたいなら、その印だけ追っても意味がない」
私は黙った。
「印を使っているから教団なんじゃない」
その言葉に、私は眉を寄せた。
「じゃあ、何なんですか?」
男はしばらく私を見ていた。
まるで。
どこまで話すべきか迷っているようだった。
やがて、視線を逸らす。
「……教団っていうのは、印ひとつでできてるものじゃない」
その言葉が、妙に残った。
私は母さんの記録を思い出す。
死体。
水辺。
東の水門。
印。
そして、人々の思想。
そうだ。
母さんが調べていたのは、印だけじゃなかった。
印を持つ人間でもない。
その向こう側にあるもの。
人が何を信じ。
死をどう考え。
なぜ同じ考えを共有するのか。
そこまで母さんは追っていた。
「……燈骸教団って、今もあるんですか?」
私がそう尋ねると。
男の顔から、わずかに表情が消えた。
それまでとは違う沈黙だった。
私はその沈黙を見つめた。
昔の資料に書かれていた名前。
母の記録の中に残っていた名前。
それは、ずっと過去のものだと思っていた。
けれど。
男は、ゆっくりと口を開いた。
「ある」
たった一言だった。
けれど。
その瞬間。
私の中で、何かが変わった。
燈骸教団。
それは、母さんが昔調べていたものではない。
古い記録の中だけに残っている名前でもない。
今も。
どこかで。
誰かがその名前を口にしている。
私は手の中の紙を見つめた。
あの印も。
母さんの記録も。
東の水門も。
そして、燈骸教団という名前も。
全部が、過去のものではなくなった。
今、この街のどこかに。
燈骸教団は存在している。




