第三章 教団 ep.75
父さんの言葉が、部屋の中に落ちた。
私は、すぐには意味を理解できなかった。
いや。
言葉の意味そのものは分かっている。
分からなかったのは、その「だから」が何を指しているのかだった。
私は涙の残った頬を手の甲で拭った。
「……だから?」
父さんは答えなかった。
さっきまで私を見ていた目が、少しだけ伏せられる。
「お前には関係ないと言ったのは……」
そこで、父さんは言葉を切った。
私は黙って待った。
「母さんに関係しているからだ」
胸の奥が、強く鳴った。
「……母さんに?」
「あぁ」
父さんは短く答えた。
それだけだった。
けれど。
今まで何度聞いても「昔の話だ」としか言わなかった父さんが、自分から母さんのことを口にした。
それだけで、息が苦しくなるほどだった。
「だったら……」
私は声を整えようとした。
さっきまで泣いていたせいで、喉が痛い。
「だったら、どうして話してくれないの?」
父さんは黙った。
「母さんに関係してるなら、なおさら知りたい」
「紗詠」
「私は母さんの娘だよ」
声がまた震えそうになる。
けれど、今度は泣かなかった。
「母さんが何をしていたのか知りたい。何を見つけたのか知りたい。どうしてあの印を調べていたのか知りたい」
父さんは私を見ていた。
「……それを知ったら、お前は止まれなくなる」
その言葉に、私は黙った。
「もう十分、分かってるだろ」
父さんの声は静かだった。
「一度気になったことを、そのままにできないことくらい」
少しだけ、苦笑するような気配があった。
それが余計に苦しかった。
父さんは私のことを分かっている。
だからこそ。
怖がっている。
「……父さんは、母さんがそうだったことも知ってるんだね」
父さんは答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
私は目を伏せる。
母さんも。
分からないものを、そのままにできなかったのだろうか。
だったら。
私が今していることは、母さんと同じなのかもしれない。
そう思った。
でも。
同じだから危険なのか。
それとも。
母さんが追ったものの先に、本当に何かあったからなのか。
それはまだ分からない。
「……今日はもう休め」
父さんが言った。
「少し、頭を冷やせ」
もう一度だけ父さんを見る。
聞きたいことは、まだ山ほどある。
でも。
今は何を聞いても、これ以上は答えてくれない。
私は部屋を出た。
扉を閉める。
廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが少しだけ抜けた。
壁に背を預ける。
目を閉じる。
まだ胸が痛かった。
泣いたせいで、目の奥が熱い。
父さんの言葉が頭の中を何度も巡っていた。
_____母さんに関係しているからだ。
だから。
調べるなと言った。
私を守るために。
けれど。
それならなおさら。
私は知りたかった。
母さんが何を追っていたのか。
私は部屋に戻った。
机の上には、母の記録がいくつか積まれている。
昨日までなら、ただの古い記録に見えた。
今日は違った。
一冊。
また一冊。
私はゆっくりと机の上に並べていく。
ただし、最初から順番に読むことはしなかった。
母が書いた日付。
場所。
調べた対象。
その横に残された短い言葉。
それぞれを紙に書き出していく。
一つずつ。
焦らずに。
検死の記録を見るときと同じように。
分からないことを、分かったことにしない。
父さんが昔、何度も言っていた言葉を思い出す。
私は深く息を吸った。
そして、一番古い記録を開いた。
最初に出てきたのは。
死体についてだった。
死因。
外傷。
発見された場所。
死亡推定時刻。
身体に残った痕跡。
誰が発見したのか。
母さんは、死体そのものを丁寧に記録していた。
ただ、普通の検死記録とは少し違う。
死体の状態だけではなく。
その死体が、どこで。
誰によって。
どのように発見されたのか。
そこまで細かく追っている。
私は眉を寄せた。
次の記録を開く。
そこにも、死体。
さらに次にも。
死体。
けれど、ある時期から。
記録の中に、同じ言葉が増えていた。
水。
水辺。
川。
水路。
私は指を止めた。
「……水」
小さく呟く。
一つではない。
複数の記録に出てくる。
最初は、ただの発見場所として書かれていた。
けれど。
少しずつ違ってくる。
「水辺で発見された死者」
「水路付近」
「水門周辺」
「東側」
私は紙を横に並べた。
すると、点だったものが少しずつ線になっていく。
母さんは最初から水辺を調べていたわけではない。
死体を調べていた。
その中で。
何かに気づいた。
だから、水辺へ向かった。
そう考えると、記録の並び方が変わって見えた。
さらに頁をめくる。
そこにあったのが。
東の水門だった。
私は思わず、記録に顔を近づけた。
「東の水門……」
母さんは何度も、その場所について書いている。
一度ではない。
何度も。
誰かに話を聞いた記録。
現地を見た記録。
水門周辺で確認したもの。
そして。
その近くで見たものとして。
あの印が出てくる。
私は息を止めた。
印。
ここで初めてだった。
母さんの記録の中で、あの印が明確に現れる。
水辺。
東の水門。
印。
その三つが、偶然とは思えない距離で並んでいる。
けれど。
母さんの調査は、そこで終わっていなかった。
印について調べ始めた記録を追っていくと。
今度は、人の話が増えていた。
誰がその印を知っているのか。
なぜ、その印を見ても口を閉ざすのか。
何を信じているのか。
死について、どう考えているのか。
私は頁をめくる手を止めた。
「……人」
最初は死体だった。
そこから水辺へ向かった。
東の水門へ。
そして印へ。
その先で、母さんが調べ始めたのは。
人そのものだった。
死体に残された痕跡だけではない。
その死体を見た人。
その死について話した人。
そして。
死そのものを、どう捉えているのか。
母さんは、そこまで追っていた。
私は椅子に座り直した。
背もたれに身体を預ける。
頭の中で、今まで見てきた記録を並べ直す。
死体。
水辺。
東の水門。
印。
人々。
思想。
一本の線のようにつながっていく。
けれど。
まだ、答えにはならない。
印が何なのかも分からない。
母さんがそこで何を見つけたのかも。
なぜ、その先に人々の思想まで調べる必要があったのかも。
ただ。
一つだけ分かったことがある。
母さんの調査は、ばらばらではなかった。
その場その場で気になったことを調べていたわけではない。
母さんは。
何かを追っていた。
私は机の上に広げた記録を、もう一度見た。
最初の死体の記録。
そこから続く水辺の記録。
東の水門。
あの印。
そして、人々の言葉。
母さんが残した文字を指先でなぞる。
胸の奥に、静かな確信が生まれていく。
「……母さんは」
声に出すと、自分の考えが少しだけはっきりした。
「死体から、何かを見つけたんだ」
それが何だったのかは、まだ分からない。
でも。
それを追って、水辺へ行った。
東の水門へ。
そして。
あの印へ。
私は、最後の記録を閉じた。
「母さんは死体から何かを見つけ、それを追って水辺へ行ったんじゃないか」
部屋は静かだった。
誰も答えてくれない。
だから私は。
もう一度、最初の記録を開いた。




