第三章 教団 ep.74
「それ以上、調べるな」
父さんの声が、頭の中で反響する。
私は、すぐには動けなかった。
扉に手をかけたまま、指先だけが固まっている。
さっきまで聞こえていた時計の音も、外を通る人の声も、全部が遠くなったように感じた。
頭の中には、父さんの言葉だけが残っている。
_____それ以上、調べるな。
どうして。
その言葉が、胸の中で何度も繰り返された。
私はゆっくり振り返った。
「……どうして?」
父さんは答えなかった。
机の上には、さっきまで読んでいた書類が置かれている。
けれど、もう父さんは見ていない。
ただ私を見ている。
その目は、いつもの父さんの目だった。
静かで。
落ち着いていて。
何を言われても、すぐには感情を表に出さない。
だからこそ、余計に腹が立った。
「どうして調べちゃいけないの?」
「……紗詠」
「母さんのことなのに?」
声が少し大きくなった。
父さんの眉が、わずかに動く。
「この印も、母さんが調べてたことも、全部昔の話だからって……それで終わりにするの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
父さんは黙った。
まただ。
また、何も言わない。
私は唇を噛んだ。
ここ数日、ずっとそうだった。
母さんが残した記録。
あの印。
東の水門。
水の近くで亡くなった人たち。
そして、母さんの名前を知っていた人。
斑も知っていた。
父さんも知っている。
なのに。
誰も、私には教えてくれない。
「父さんは、何を知ってるの?」
「……知らなくていい」
その言葉に、胸の奥がざらついた。
「知らなくていいって……」
自分でも分かるくらい、声が震えた。
「どうしてそんなこと言えるの?」
「お前には関係ない」
その瞬間。
胸の奥で、何かが切れた。
「……私には?」
思わず聞き返していた。
父さんは何も言わない。
「私には関係ないって、何?」
一歩、父さんに近づく。
「母さんのことだよ…?」
父さんの目が、わずかに揺れた。
「母さんが何を調べてたのかも、何を知ってたのかも、私には関係ないの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味なの!?」
今度は、声を抑えられなかった。
「母さんが死んだことだって、私には関係ないの?」
父さんの顔が固まる。
部屋の中が、しんと静まった。
言ってしまった。
そう思った。
けれど、もう止められなかった。
「母さんには関係あったんでしょう?」
父さんは答えなかった。
私は父さんを見つめる。
「この印も」
返事はない。
「母さんが調べてたことも」
沈黙。
「母さんが死んだことも……」
最後の言葉だけ、声が小さくなった。
喉が詰まる。
目の奥が熱い。
泣くつもりなんてなかった。
こんなことで泣きたくなかった。
私はもう子供じゃない。
検死役を目指している。
死体を前にしても、目を逸らさないようにしてきた。
分からないことがあれば、自分で調べる。
誰かに答えをもらうのではなく、自分の目で見て、自分の頭で考える。
それが私のやり方だった。
なのに。
どうして母さんのことになると。
こんなにも何もできないんだろう。
「……私だって」
声が震えた。
一度、息を吸う。
うまく入ってこない。
「私だって、母さんのこと知りたいよ」
父さんは何も言わない。
「何も知らないままなんて嫌なの」
目の奥に溜まっていたものが、とうとう頬を伝った。
一滴。
慌てて拭う。
でも、次の涙が落ちた。
「母さんが何を考えてたのかも知らない」
もう一度、拭う。
「何を調べてたのかも知らない」
声が掠れる。
「どうして死んだのかだって……私は、ちゃんと聞かされてない」
父さんの顔が苦しそうに歪んだ。
ほんのわずかだった。
それでも、私は見た。
「それなのに……」
私は俯いた。
涙が床に落ちる。
「私には関係ないって言われたら……」
そこから先は、言葉にならなかった。
父さんは黙っていた。
怒っているわけではない。
困っているわけでもない。
ただ、何かを耐えているように見えた。
やがて父さんが、低い声で言った。
「……お前を巻き込みたくない」
私は顔を上げた。
「巻き込む?」
「そうだ」
「何に?」
父さんは答えない。
「教団に?」
その言葉を口にした瞬間。
父さんの目が変わった。
ほんの一瞬。
けれど、今度ははっきり分かった。
知っている。
やっぱり。
父さんは知っている。
「教団って、何?」
「……」
「母さんは教団を調べてたの?」
「それ以上は聞くな」
「どうして?」
「紗詠」
「どうしてなの!」
声が部屋に響いた。
父さんが目を見開く。
私自身も驚いていた。
こんな声を出したのは、いつ以来だろう。
「父さんは、ずっとそうじゃん……」
涙で視界が滲む。
「母さんのことを聞いても何も言わない」
一歩近づく。
「印のことを聞いても昔の話だって言う」
もう一歩。
「危ないからって止めるだけ」
父さんは何も言わない。
「私は何も知らないままなのに」
声が震える。
「私だけ何も知らなくて、みんなで母さんのことを知ってるみたいにして……」
そこで言葉が詰まった。
「……ずるいよ」
ぽつりと出た。
その一言だけは、怒りではなかった。
子供のような、わがままな言葉だった。
でも。
今の私には、それしか言えなかった。
父さんが、ゆっくり立ち上がる。
私は反射的に一歩下がった。
父さんは何も言わず、私を見ている。
怒られる。
そう思った。
けれど。
父さんは怒らなかった。
ただ、苦しそうに私を見た。
「……すまない」
その言葉に、胸が痛くなった。
謝ってほしいわけじゃない。
そんなことを言ってほしいわけでもない。
私は首を横に振った。
「謝らないでよ……」
また涙が落ちる。
「だったら教えてよ」
父さんは黙った。
「全部じゃなくていい」
私は必死に言葉を探した。
「母さんが何を見てたのか」
「……」
「何を怖がってたのか」
「……」
「どうして、父さんはそんなに何も言わないのか」
最後の言葉は、ほとんど懇願だった。
「教えてよ……」
長い沈黙が落ちる。
父さんは目を伏せた。
そして。
ほんの少しだけ、拳を握った。
何かを決めるように。
けれど、結局。
父さんは何も話さなかった。
私には分からない。
何を守ろうとしているのか。
何を隠しているのか。
ただ一つだけ分かった。
父さんが私を止めているのは、私を信用していないからではない。
私を遠ざけようとしている。
傷つけないために。
危険から離すために。
それでも。
その優しさは、今の私には苦しかった。
母さんを知りたいという気持ちまで、守るという言葉で閉じ込められてしまう気がした。
父さんは、しばらく黙っていた。
やがて。
私を見たまま、低く呟いた。
「……だからだ」




