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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.73





家に戻ったとき、父さんは机に向かっていた。

窓の外は、もう暗い。

夕方の名残が消えた空に、薄い雲だけが浮かんでいる。

部屋の中には、小さな灯りがひとつ。

その下で、父さんはいつものように書類を読んでいた。

紙をめくる音。

筆先が紙を擦る音。

それだけが、静かな部屋に続いている。




私は、戸口に立ったまま動かなかった。

手の中には、折り畳んだ紙がある。

母さんの記録から写した、あの印。

先程、斑に見せた。

そして、斑は知っていた。

いや。

正確には、知っていることを隠そうとした。

「昔の話だ」

そう言った。

けれど、その声には迷いがあった。

父さんはどうだろう。

私は、紙を握る指に少し力を入れた。




「……父さん」




書類をめくっていた手が止まる。




「何だ」




父さんが顔を上げた。

いつもの顔だった。

何かを疑っている様子もない。

疲れているようにも見えない。

ただ、私を見ている。




「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「何だ」

「この印のこと」




その瞬間だった。

父さんの目が、ほんのわずかに動いた。

私は息を止めた。

ほんの一瞬。

けれど、確かに。

父さんは反応した。

視線が、私の手元へ落ちる。




「……それか」




小さな声だった。




「知ってるの?」




父さんは答えなかった。

私は紙を少しだけ開いた。

全部を見せる必要はない。

印の一部だけが、灯りの下に現れる。

父さんの目がそこへ向く。

そして。

すぐに逸らされた。




「……昔の話だ」




その言葉に、胸がざわついた。

まただ。

斑も同じことを言った。




_____昔の話だ。




まるで申し合わせたように。




「いつの話?」

「昔だ」

「いつ?」

「もう随分前の話だ」

「母さんが生きてた頃でしょ?」




父さんの返事が止まる。

ほんの数秒。

それだけだった。

でも、私には長く感じられた。

父さんは何かを考えている。

何を答えるかではなく。

どこまで答えるかを。

そう思った。




「……そうだ」




短い返事だった。

私は目を伏せる。

やっぱり。

この印は、母さんが生きていた頃から存在していた。

母さんは知っていた。

斑も知っていた。

そして、父さんも。




「母さんも、この印を知ってたんだよね」




父さんは答えない。




「母さんが調べてたんだよね」




沈黙。




「東の水門のことも」




父さんの眉が、ほんの少し動いた。

私はそれを見た。




「水のことも」




返事はない。




「死んだ人のことも」




父さんの指が、机の上で止まる。

やっぱり。

知っている。

母が何を調べていたのか。

少なくとも、いくつかは。




「……父さん」




呼びかける。

父さんは顔を上げなかった。




「母さんは、何を探してたの?」




沈黙。




「何を知ろうとしてたの?」




沈黙。




「この印は、何なの?」




答えはない。

部屋の中に、時計の音だけが響いている。

一秒。

また一秒。

その静けさが、だんだん苦しくなってくる。

父さんの横顔を見つめた。

いつもなら。

分からないことを聞けば、父さんは一緒に考えてくれる。

分からないものを、分かったことにするな。

そう教えられてきた。

だから、私は思っていた。

いつか父さんに聞けばいい。

母さんのことも。

母さんが何をしていたのかも。

自分が知らなかった母の姿も。

いつか。

ちゃんと教えてもらえると思っていた。

けれど。

今、目の前にいる父さんは。

教えようとしていない。

分からないからではない。

知らないからでもない。

知っている。

だからこそ、言わない。

そのことに気づいた瞬間。

胸の奥が、ひやりとした。




「……母さんのことも?」




声が、少しだけ震えた。

父さんの手が止まった。

今度は、はっきりと。

けれど、顔は上がらない。




「母さんが何を調べてたのかも、知ってるの?」




答えはない。




「母さんが、どうしてこの印を調べてたのかも?」




沈黙。




「母さんが……」




そこで、言葉が詰まった。

何を聞こうとしているのか。

自分でも分からなくなった。

ただ。

聞いてしまったら、戻れないような気がした。

それでも。

口から出てきた。




「母さんが死んだことも……関係あるの?」




父さんは動かなかった。

本当に、動かなかった。

その沈黙が、何よりも怖かった。

否定してほしかった。

「違う」と言ってほしかった。

母さんの死と、この印は関係ない。

母さんが調べていたことも、ただの昔の仕事だった。

そう言ってくれればよかった。

けれど。

父さんは、何も言わなかった。

私は息をするのを忘れていた。

やがて、父さんがゆっくりと目を閉じる。

ほんの一瞬だけ。

それから、目を開いた。




「……昔の話だ」




また。

その言葉。

けれど、今度は違った。

さっきまでのような、ただの昔話を指す言葉には聞こえなかった。

これ以上、触れるな。

これ以上、聞くな。

そう言われているようだった。




「昔って……」




ゆっくりと言葉を続けた。




「母さんが死んだことも?」




父さんは答えない。




「私が知らないことも、全部?」




答えない。




「父さんが知ってることも?」




それでも。

父さんは何も言わなかった。

その沈黙が、答えだった。

私は唇を噛んだ。

聞きたい。

もっと聞きたい。

母さんは何を見つけたのか。

なぜ、この印を追っていたのか。

なぜ、父さんは何も話さないのか。

なぜ、斑は迷っているのか。

そして。

母さんの死は、本当にただの病気だったのか。

頭の中に、次々と疑問が浮かんでは消えていく。

けれど。

目の前の父さんを見ていると、それ以上の言葉が出てこなかった。

父さんの顔には、怒りはなかった。

拒絶もない。

ただ、固く閉ざされた何かがある。

それは、今まで私が見てきた父さんの沈黙とは少し違っていた。

昔の話だから話さないのではない。

話せないのでもない。

話さないと、決めている。

そんな沈黙だった。




「……分かった」




私は小さく言った。

本当は、分かっていなかった。

何ひとつ。

でも、これ以上聞いてもやはり答えてくれないことだけは分かった。

紙を折り直す。

母さんの残した印が、見えなくなる。




「もういい」




そう言って、私は部屋を出ようとした。

一歩。

足を踏み出す。

二歩目に入ろうとした、そのとき。




「紗詠」




背中から、父さんの声がした。

足が止まる。

振り返る。

父さんは、まだ机の前にいた。

けれど、もう書類には目を向けていない。

まっすぐ、私を見ている。

その顔を見た瞬間。

胸の奥が、強く締めつけられた。

怖い。

そう思った。

怒っているわけではない。

声を荒げてもいない。

それなのに。

今まで聞いたことのないほど、強い声だった。




「……何?」




父さんは、少しだけ間を置いた。

その間に。

言うべきかどうか、最後まで迷っているように見えた。

それでも。

父さんは口を開いた。




「それ以上、調べるな」




聞き間違いではない。

父さんは今。

母さんのことを聞いても。

印について聞いても。

ずっと「昔の話だ」と言うだけだった父さんが。

はっきりと。

調べるな、と言った。




私は手の中の紙を握りしめる。

紙の向こうにある印が、急に重く感じられた。




_____どうして?




その問いは、声にはならなかった。

ただ。

父さんの目を見ていると。

この先にあるものを、父さんは知っている。

そんな気がした。

そして。

それを知っているからこそ。

自分に近づいてほしくないのだと。




私には、そう思えた。




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