第三章 教団 ep.72
斑の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
目が細くなったわけでもない。
眉を寄せたわけでもない。
ただ、それまで話を静かに聞いていた視線が、一瞬だけ、遠くへ向いた。
何かを思い出している。
そう思った。
「……斑」
呼びかけると、斑の視線が戻ってくる。
「なんだ」
「母さんのこと、知ってるんだよね」
その問いに、斑はすぐには答えなかった。
部屋の中には、紙をめくる音もなかった。
扉の外から、遠くで人の話し声が聞こえる。
それだけだった。
「……昔の話だ」
やがて、斑がそう言った。
「昔……?」
「そうだ」
それだけで、話を終わらせるつもりなのだと分かった。
けれど。
私は引かない。
「どのくらい、昔」
斑は答えない。
「母さんが生きていた頃のことだよね」
今度は、斑の目がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、私には分かった。
やっぱり知っている。
「……何を知ってるの」
「何も」
「嘘」
言ってから、少し驚いた。
斑は黙って私を見る。
責めるような目ではなかった。
むしろ、困っているように見えた。
その表情が、妙に引っかかった。
父さんとは違う。
母さんのことを聞いたときの父さんは、質問をすれば言葉を止める。
話題を変える。
「昔のことだ」と言って、それ以上は何も話さない。
まるで、そこから先へ進むことそのものを拒んでいるように。
でも、斑は違った。
答えないのではない。
答えるかどうかを、迷っている。
私はそれに気づいた。
「……母さんと、何があったの」
斑の視線が、少しだけ落ちる。
「何かあった、というほどのことじゃない」
「じゃあ、どうして知ってるの」
「仕事で関わった」
「それだけじゃないでしょ…?」
「…」
沈黙。
胸の奥がざわついた。
母が検死役として働いていた頃。
「母さんは、何をしていたの」
斑は答えなかった。
「何を調べていたの」
「……」
「その印のことも?」
沈黙。
それが答えのように思えた。
私は息をゆっくり吐いた。
やっぱりだ。
母は、斑にも何かを残している。
記録なのか。
言葉なのか。
それとも、ただ一緒にいた時間の中で知っただけなのか。
分からない。
けれど。
「父さんも、知ってるのに」
ぽつりと言うと、斑が顔を上げた。
「……詠真さんが?」
「うん」
「何を」
「分からない」
私は苦く笑った。
「聞いても、何も言ってくれないから」
父さんは、母さんのことを知っている。
斑も、知っている。
なのに。
二人とも、同じようには答えてくれない。
父さんは、まるで扉を閉めるように黙る。
その先に何があっても、見せようとはしない。
けれど斑は違う。
扉の前に立ったまま、開けるべきか閉めるべきかを迷っている。
その違いが、かえって怖かった。
「……斑」
「なんだ」
「母さんは、何か悪いことをしていたの?」
斑は少しだけ目を見開いた。
「どうしてそう思う」
「だって」
私は、机の上に置いた紙を見る。
そこには、母の残した印がある。
「母さんが調べていたことを、父さんも斑さんも話したがらないから」
声が小さくなる。
「私が知らない方がいいことなんでしょ?」
しばらく、斑は黙っていた。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「……そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話なの」
答えは返ってこなかった。
斑の指が、膝の上でわずかに動く。
迷っている。
その様子を見ていると、私はもう一度聞くことができなかった。
何かを言おうとしている。
けれど、言えない。
母のことを話すには、何か覚悟がいるようだった。
「昔の話だ」
もう一度、斑が言った。
今度の声は、さっきより少しだけ低かった。
「俺が話すべきことじゃない」
その言葉に、私は黙った。
母が亡くなってから、ずっと。
父さんは何も話さなかった。
母さんについて尋ねても、必要以上のことは言わなかった。
その沈黙を、ずっと「父さんが話したくないから」だと思っていた。
でも。
もしかしたら。
父さんが閉ざしているのは、母そのものではないのかもしれない。
母が何を知っていたのか。
何を見つけたのか。
そして_____何を恐れていたのか。
その先を、父さんは知っている。
斑も。
ただ、二人とも同じ理由で黙っているわけではない。
そう思った。
斑は、しばらく何も言わなかった。
やがて、私の目を見る。
その目には、先ほどまでの迷いが残っていた。
けれど。
今度は、それとは別の色が混じっていた。
「……紗詠」
「なに」
「その印を追うのは、やめた方がいい」
静かな声だった。
だからこそ、その言葉は重かった。
私は、机の上の紙に目を落とす。
そこに描かれた印は、何も語らない。
ただ、母が残したものとして。
そこにある。
「……どうして」
斑は答えなかった。
ただ、その沈黙だけが。
答えよりも多くのことを語っている気がした。




