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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.71




検死が終わったあとも、私はしばらく検死室に残っていた。

斑は記録を確認している。

机の上に広げられた紙には、さっき調べた遺体の状態が細かく書かれていた。

傷の位置。

大きさ。

身体に残された変化。

死因。

どれも、いつも通りの記録だ。

けれど。

私は、さっきから別のことを考えていた。

彼らが見ているのは、死体ではない。

母さんが残した言葉。

その意味が、頭から離れなかった。




「……斑」




声をかけると、斑が紙から顔を上げた。




「何だ?」

「少し、聞きたいことがある」

「珍しいな」

「そう?」

「お前から話しかけてくるときは、だいたい何かある」




少しだけ、からかうような声だった。

私は返事をせず、懐に手を入れた。

折り畳んだ紙を取り出す。

何度も開いたせいで、紙の折り目は少し柔らかくなっている。

そこに描かれているのは、あの印だった。

私は紙を机の上に置いた。




「これ……知ってる?」




斑の視線が、紙へ落ちる。

その瞬間だった。

ほんの一瞬。

本当に、一瞬だけ。

斑の表情が変わった。

目が止まった。

呼吸が、わずかに遅れたように見えた。

けれど、それはすぐに消えた。

いつもの顔に戻っている。

何も知らないような。

何も気にしていないような顔。

私は黙って斑を見た。

今のは、何だったのだろう。




「……それ」




斑が言った。

声が少し低かった。




「どこで見た」




質問に質問で返された。

私はすぐには答えなかった。

斑の顔を見る。

普段と変わらない。

けれど。

さっきの反応だけは、見間違いではないと思う。




「先に答えて」

「何を?」

「知っているかどうか」




斑は紙から視線を外した。




「そう聞かれると、答えにくいな」

「じゃあ、知っているってことね」

「そういう言い方をするな」

「でも、今……」




私は言葉を止めた。

何を言えばいいのか分からなかった。

斑は紙を見ている。

印から目を離さない。

その顔には、考えていることがほとんど出ていなかった。




「どこで見た?」




もう一度、斑が聞いた。

今度は、少しだけ強い声だった。

私は迷った。

この人に話していいのだろうか。

母さんのことを。

あの店のことを。

東の水門のことを。

全部話してしまえば、何かが分かるかもしれない。

けれど。

同時に、怖かった。

斑が知っている。

それだけは、もう間違いない。

でも。

何を知っているのかは分からない。

私は紙を見下ろした。

母さんが残した印。

母さんが追っていたもの。

そして。

今、目の前にいる斑。




「……水辺で見つけた」

「水辺?」

「正確には、東の水門の近く」




斑の眉が、ほんの少し動いた。




「誰かから聞いたのか?」

「調べてる」

「お前が?」

「うん」

「なぜ」

「気になったから」

「それだけか?」




私は顔を上げた。

斑は、私を見ていた。

その目は静かだった。

けれど、さっきまでとは少し違う。

まるで。

私がどこまで知っているのかを確かめようとしているようだった。

私は答えなかった。

胸の奥に、いくつもの言葉が浮かんでは消えていく。

ただ印があったから。

ただ気になったから。

そんな簡単な理由ではない。

東の水門。

水辺で見つかった死者。

そこに残されていた印。

そして、あの店で聞いた話。

母さんが、同じ場所で同じものを追っていたこと。

それらが少しずつ重なっている。

けれど、私はまだ、それをうまく言葉にできなかった。

しばらく黙ったあと、私は小さく息を吐いた。




「……このまま、分からないままにしたくない」




斑が私を見る。




「何が?」

「この印が何なのかも。どうして水辺に残されているのかも」




私は紙の上の印を見つめた。




「それに……この印を知っている人がいるのに、誰も詳しいことを話そうとしないから」




斑は黙っていた。

私は紙を指先で押さえた。




「何かを隠しているなら、その理由を知りたい」




自分で口にしてみて、ようやく分かった。

私は、印そのものを知りたいわけではない。

その向こうにあるものを知りたいのだ。

何があったのか。

誰が関わっているのか。

そして。

どうして、母さんがそれを追っていたのか。

私は顔を上げた。




「だから調べている」

「……」

「母さんが、何を調べていたのか知りたいの」




斑は黙っていた。

私は、その沈黙が嫌だった。

何かを考えている。

でも、言わない。

私が知らない何かを知っている。

なのに。

教えてくれない。




「斑」

「何だ」

「この印は、何?」




長い沈黙のあと。

斑が答えた。




「……まだ、お前が知る必要はない」




胸の奥が、ざわついた。




「どうして?」

「知らない方がいいこともある」

「それは、私が決める」




斑は答えなかった。

私は紙を握った。

指先に力が入る。




「私は、母さんのことを知りたいの」

「……」

「母さんが何を調べていたのか。

何を知っていて。

何を知らなかったのか。

どうして、こんなものを残したのか」




言葉が、少しずつ強くなる。

自分でも分かっていた。

私は怒っている。

斑にではない。

たぶん。

ずっと何も知らなかった自分に。

母さんは亡くなった。

父さんも、詳しいことを話してくれない。

記録だけが残っている。

その記録を追って、ようやく少しずつ母さんの足跡が見えてきた。

なのに。

また、目の前に壁がある。

斑は、そんな私を黙って見ていた。

やがて。

小さく息を吐く。




「……その印は、昔からある」

「昔?」

「あぁ」

「何のためのものなの?」

「それは知らない」

「本当に?」




斑の視線が、私の目に向いた。




「全部を知っているわけじゃない」




その言葉には、妙な重さがあった。

全部を知っているわけじゃない。

なら。

一部は知っている。

私はそう受け取った。




「……斑は、どこで知ったの?」

「それは答えられない」

「どうして?」

「今はまだ、話せない」




まただった。

今はまだ。

その言葉が、胸に引っかかった。

いつかなら話せるのだろうか。

それとも。

私が何かを知るまで、ずっと話さないつもりなのだろうか。

私は紙を畳もうとした。

そのとき。

斑が言った。




「その印を、誰かに見せたのか?」

「……何人かには」

「誰に?」

「店の人に」




斑の顔が少しだけ険しくなった。




「店?」

「うん。母さんが昔、話を聞いていた人がいたの」

「……そうか」

「知っていたの」

「何を?」

「母さんのことを」




斑は何も言わない。

私は、そこで決めた。

これ以上隠す必要はない。

少なくとも。

斑がこの印を知っているなら。

母さんのことも、何か知っているかもしれない。

私は紙を机の上に置いた。

そして、静かに言った。




「母さんの記録に、あったの」




斑の目が、止まった。




「……何?」

「この印」




私は紙を指差した。




「母さんの記録に、これが残っていた」




斑の表情から、わずかに色が消えた。

今まで見たことのない顔だった。

驚いている。

それだけではない。

まるで。

聞いてはいけない名前を、突然聞かされたような。

そんな顔だった。

私は息を呑んだ。

やっぱり。

この人は、何かを知っている。

そして。

印そのものよりも。

母さんがこの印を知っていたことの方を、斑は恐れている。

そんな気がした。




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