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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.70




夜が深くなってからも、私は母さんの帳面を閉じられずにいた。

机の上には、小さな灯りだけが置かれている。

窓の外は暗い。

遠くから聞こえていた人の声も、いつの間にか少なくなっていた。

静かな部屋の中で、紙をめくる音だけが響く。

母さんは、何を探していたのだろう。

そのことを考えながら、私は記録を最初から読み返していた。

東の水門。

水辺で見つかった死者。

身体に残された傷。

その周辺で聞き取った話。

そして、何度か出てくる、あの印。

けれど、いくら読んでも答えは見つからない。

母さんは、分かったことを書いている。

けれど、分からなかったことについては、ほとんど何も書いていない。

まるで。

自分が何を探しているのかさえ、記録には残さないようにしていたみたいだった。




私は頁をめくった。

一枚。

また一枚。

古い紙が、指先の下で小さく鳴る。

そのときだった。

ある頁の端に、見慣れない文章が目に入った。

私は指を止めた。

そこには、短い言葉が書かれていた。




『彼らが見ているのは、死体ではない』




「……」




息が止まった。

私はしばらく、その一文を見つめていた。

何度読んでも、意味が変わるわけではない。

けれど、すぐには理解できなかった。

彼ら。

誰のことだろう。

教団のことだろうか。

それとも、別の誰か。

私はその前後の文章を読み返した。

けれど、そこには具体的な名前は書かれていなかった。

いくつかの記録と、短い聞き取りの内容。

そして、その一文だけが残されている。

彼らが見ているのは、死体ではない。




私は紙の上に置いた指を動かした。

死体ではない。

なら、何を見ているのだろう。

私は考えた。

そして、不意に。

検死をしているときの自分の姿が浮かんだ。

私は死体を見る。

まず、全身を見る。

服の乱れ。

皮膚の色。

傷の位置。

出血の跡。

身体に残された変化。

それから、必要なところを一つずつ確かめていく。

今日まで、何度もそうしてきた。

死んだ人間を前にして、私は感情だけで判断しない。

怖いから。

かわいそうだから。

気味が悪いから。

そんな理由で、見えるものを見なかったことにはしない。

傷があれば、傷を見る。

どのようにできたのかを考える。

生前にできたものなのか。

死んだあとについたものなのか。

その違いを確かめる。

身体は、嘘をつかない。

残されたものを一つずつ拾えば、そこには必ず何かがある。

私は、それが検死だと思っていた。

けれど。

母さんの言葉が、頭の中に残っている。

彼らが見ているのは、死体ではない。




翌日。

その日は、父さんが朝から宮城へ出ていた。

急な用が入ったらしく、戻るのは夕方以降になるという。

そのため、今日の検死の主は斑が入ることになった。




「今日は俺が見る」




検死室に入ると、斑がそう言った。




「うん」




私は頷いた。

部屋には、薬品と水の匂いが混ざっている。

差し込む光は白く、遺体の肌を淡く照らしていた。

私は手袋をつける。

斑が遺体の状態を確認していく。

私はその横で、指示を待つ。

亡くなったのは、若い女だった。

身体にはいくつかの傷がある。

大きな外傷ではない。

けれど、見落としてはいけないものがある。




「腕を」




斑に言われ、私は遺体の腕を持ち上げた。

皮膚の状態を確認する。

傷の周囲。

色。

腫れ。

出血の跡。




「お前はどう見る?」




斑が聞いた。

私は傷に目を近づけた。




「……擦過傷、だと思う」

「そうだな」

「深くはない」

「続けろ」




私は頷いた。

一つずつ、確かめていく。

傷の形。

位置。

周囲の皮膚。

身体の別の場所に同じような傷がないか。

背中。

腰。

脚。

首元。

斑は必要なところだけを指示しながら、私が確認するのを待っている。

私は見落とさないように、慎重に目を動かした。

死んだ人間は、何も話さない。

だからこそ。

残されたものを見る。




私は記録用の紙に、確認したことを書いていく。

傷の位置。

大きさ。

色。

身体の状態。

推測される死因。

書き終えたところで、私は一度筆を止めた。

死因は、水による窒息。

ただし。

身体に残された傷の一部は、死因そのものとは直接関係しない可能性がある。

私はそう記した。

それから、もう一度遺体を見る。

この人が、死ぬ前に何をしていたのか。

どこにいたのか。

誰といたのか。

何が起きたのか。

私は知らない。

遺体は教えてくれない。

けれど。

身体に残ったものから、少しずつ辿ることはできる。

それが私の仕事だ。




私は遺体から目を離し、記録に目を戻した。

そのとき。

昨夜見つけた言葉が、また頭に浮かんだ。

彼らが見ているのは、死体ではない。

私は筆を置いた。

私が見ているのは、死体だ。

少なくとも、私はそう思っている。

死んだ人間の身体を見て。

そこに残されたものを調べる。

何が起きたのかを知るために。

けれど。

母さんが書いた「彼ら」は。

同じ死者を見ても、別のものを見ている。

何を見ているのかは、まだ分からない。

死そのものなのか。

死んだ人間の向こうにある何かなのか。

あるいは。

死者ではなく、生きている人間の何かなのか。




「……どうした?」




斑の声がした。

私は顔を上げた。




「何か気になることでもあるのか」




私は一瞬、答えるのを迷った。

けれど、母さんの言葉を斑に話すことはしなかった。




「……少し、考え事をしていただけ」

「そうか」




斑はそれ以上聞かなかった。

私は遺体へ視線を戻した。

私は分からないまま、手袋を外した。

遺体の上に、静かに布を戻す。

白い布が身体を覆っていく。

顔が見えなくなる。

傷も。

皮膚も。

もう見えない。




私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

教団が死をどう見ているのか。

私はまだ知らない。

母さんが何を見つけたのかも。

分からない。

ただ。

一つだけ。

母さんの記録を読む前と、今とでは。

同じ「死」というものが、少し違って見えていた。




私は机の上に置いた母さんの帳面を思い出した。

彼らが見ているのは、死体ではない。

その言葉の意味を。

私は、まだ知らない。

けれど。

いつか。

その「彼ら」が何を見ているのかを、自分の目で確かめたいと思った。




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