第三章 教団 ep.69
家に戻ってからも、私はすぐには部屋へ戻らなかった。
玄関を上がり、廊下を歩いて、いつものように自分の部屋へ向かう。
けれど、途中で足を止めた。
窓の外は、もう薄暗くなっている。
街の明かりが少しずつ灯り始めていた。
私はしばらくその場に立ったまま、今日聞いた話を頭の中で繰り返していた。
詠月。
母さんの名前。
母さんは、あの店に何度も来ていた。
一度ではない。
二度でもない。
何度か。
そして、そのたびに聞いていた。
印のこと。
水辺で亡くなった人のこと。
死んだ人間のこと。
私はゆっくりと部屋へ入った。
机の上には、昼間まで使っていた帳面が置かれている。
私は椅子に座ると、しばらく何もせずにその表紙を見つめた。
それから、帳面を開いた。
母さんの記録。
何度も読んだはずの文字。
今までは、ただ母さんが残した記録として読んでいた。
けれど、今は違う。
今日聞いた話を知ったあとでは、書かれている一つ一つの言葉が違って見えた。
東の水門。
水。
死者。
印。
私は紙の端に、順番に書き出していった。
東の水門。
その近くで見つかった死者。
水に関する記録。
そして、あの印。
そこまでは、私も知っている。
母さんの帳面に残っていたことだ。
でも。
そこに、もう一つ加わった。
あの店。
そして、あの店の人。
母さんは、そこへ何度も足を運んでいた。
私は筆を止めた。
窓の外を見る。
母さんが、あの街を歩いていた姿を想像する。
どこから来たのだろう。
何を見ていたのだろう。
誰に話を聞いたのだろう。
どんな顔をしていたのだろう。
私は帳面に目を戻した。
もし母さんが、ただ東の水門で起きた事件を調べていただけなら。
一度、現場を見れば済んだかもしれない。
検死役だった母さんなら、遺体を調べることもできた。
傷を見て。
身体を見て。
死因を確かめる。
それが母さんの仕事だった。
けれど。
母さんは、それだけでは終わっていない。
水辺について調べている。
印について尋ねている。
そして、わざわざ店にいる人間に話を聞いている。
私は紙に書いた文字を眺めた。
東の水門。
水。
死者。
印。
店。
一つずつなら、別々のことに見える。
でも。
全部、母さんが調べていたもの。
偶然ではない。
私は椅子の背にもたれた。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
母さんは、何かを追っていた。
それも、かなり意図的に。
「……何を?」
思わず、声が出た。
もちろん、答える人はいない。
部屋には私しかいない。
私はもう一度、帳面を開いた。
母さんの文字を指先でなぞる。
書かれていることは多くない。
むしろ、少ない。
だからこそ、気になった。
どうして、これだけのことを書き残したのだろう。
どうして、印を写したのだろう。
どうして、水辺の死者について記録したのだろう。
そして。
どうして、あの場所に何度も足を運んだのだろう。
私は新しい紙を一枚取り出した。
そこへ、もう一度書く。
東の水門。
その下に。
水。
さらに。
死者。
そして。
印。
最後に。
母さんが会った人。
そこまで書いて、筆が止まった。
人。
もしかしたら、今日会った男だけではないのかもしれない。
母さんは、あの店に何度も来ていた。
だったら。
あの人以外にも、母さんと話した人がいるかもしれない。
誰かに聞き。
誰かから情報を得て。
また別の場所へ行った。
そんな姿が、少しずつ浮かんでくる。
私は目を閉じた。
母さんの顔を思い出す。
優しい顔。
静かな声。
私が幼かった頃の記憶。
父さんの隣にいる母さん。
そして。
今まで知らなかった母さん。
母さんは、私に何も言わなかった。
少なくとも、私は聞いていない。
父さんも、詳しくは話していない。
母さんが何を調べていたのか。
なぜ調べていたのか。
どこまで分かっていたのか。
私は何も知らない。
そのことが、今になって急に怖くなった。
母さんが亡くなってから、もう何年も経っている。
私は母さんのことを知っているつもりだった。
母さんは検死役だった。
死んだ人の身体を調べる人だった。
それだけだと思っていた。
けれど。
本当に、それだけだったのだろうか。
私は紙の上に並んだ言葉を見つめた。
東の水門。
水。
死者。
印。
そして、あの街で母さんが話を聞いた人たち。
これらが全部、母さんの中では繋がっていたのではないか。
私には見えていなかっただけで。
母さんは、何かを知っていた。
だから調べた。
だから何度もあそこへ行った。
だから、記録を残した。
では。
その先に何があったのだろう。
私は筆を置いた。
胸の奥に、今までとは違う疑問が生まれていた。
母さんは、何かを調べていた。
事件を追っていたのかもしれない。
誰かを探していたのかもしれない。
何かの正体を知ろうとしていたのかもしれない。
でも。
まだ何も分からない。
私は紙を見つめたまま、静かに呟いた。
「母さんは……何を探していたんだろう」
その言葉が、部屋の中に小さく残った。
今まで私は、母さんが何を知っていたのかを考えていた。
けれど。
違うのかもしれない。
母さんは、何かを知ったから記録を残したのではなく。
何かを知らなかったから、探していたのかもしれない。
私はもう一度、母さんの帳面を開いた。
今度は最初から読み直すつもりで。
母さんが何を書いたのかではなく。
何を探していたのか。
そのことを考えながら。
頁を一枚ずつ、ゆっくりとめくっていった。




