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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.68




店を出てからも、私はしばらく歩き続けた。

足は勝手に前へ進んでいるのに、頭の中では、さっきの店の中に置いてきたはずの会話が何度も繰り返されていた。




_____その印については、あまり人に聞かない方がいい。




あの人は、何かを知っている。

それだけは分かった。

けれど、それ以上は分からない。

何の印なのか。

誰が使っているのか。

どうして水辺に残されているのか。

そして、なぜ聞かない方がいいのか。

分からないことばかりだった。




私は歩みを緩めた。

懐の中には、母さんの記録から写した紙が入っている。

何度も折り畳んだせいで、紙の端が少し柔らかくなっていた。

その紙に描かれた印を見るたびに、母さんの顔が浮かぶ。

母さんなら、あの人に何を聞いただろう。

何を知っていたのだろう。

そして、何を知らなかったのだろう。

気がつくと、私は来た道を戻っていた。

あの店へ。

もう一度、話を聞こうと思った。

店の前まで戻ると、男はまだ店先にいた。

今度は木箱ではなく、古い桶を磨いている。

私に気づくと、顔を上げた。




「……また来たのか」

「すみません」

「何だい?」




私は少し迷った。

さっきまでは、母のことを話すつもりはなかった。

けれど、もう隠していても仕方がないような気がした。




「もう少しだけ、聞いてもいいですか?」




男は黙って私を見た。

やがて、




「まぁ、いいけどな」




と答えた。

私は店先に立ったまま、また懐から紙を取り出した。

印を描いた紙。

男はそれを見て、少しだけ眉を動かした。




「これについて、昔から知っている人は他にもいるんですか?」

「さぁな」

「あなたが知っている範囲で構いません」




男は桶を磨く手を止めた。




「……どうしてそんなに気になる?」

「母が調べていたんです」




男の手が止まった。

今度は、はっきりと分かった。

空気が変わった。




「母親が?」

「はい」

「いつ頃の話だ?」

「母が亡くなる前…6年くらい前です」




男は何も言わなかった。

私は胸の奥がざわつくのを感じた。




「この印について、何か知っているんですよね?」

「……」

「母も、ここに来たことがあるんですか?」




男はすぐには答えなかった。

店の外を人が通り過ぎていく。

荷車の音が遠ざかっていく。

風に揺れた軒先の布が、ぱたぱたと音を立てた。

その間、男はずっと黙っていた。

やがて、男が小さく息を吐いた。




「そうか」




それだけ言った。




「何が、ですか?」

「いや……」




男は少し困ったように笑った。




「そういうことだったのかと思ってな」

「どういうことですか?」

「昔、ここに来た女がいたんだ」




私は息を止めた。




「女……?」

「あぁ」




男は桶を脇へ置いた。




「今のあんたみたいに、いろいろ聞いてきた」




胸の奥が、どくんと鳴った。




「どんな人でした?」

「細かったな」




男は記憶を探るように、少し上を見た。




「髪が長かった。静かな人だったよ」




私は何も言わなかった。

それだけで分かる。

母さんだ。

間違えるはずがない。




「何を聞いていたんですか?」

「いろいろだ」

「この印について?」

「あぁ」

「水についても?」




男がこちらを見る。




「よく知ってるな」

「母の記録に残っていました」

「そうか」




男は少しだけ笑った。




「じゃあ、やっぱりあんたはあの人の娘か」




その言葉に、私は目を見開いた。




「……やっぱり、母なんですね?」

「と言っても、数回話しただけだ」




男はそう言った。




「名前を聞いたんだ」

「名前……」

「あぁ」




男は遠い記憶を思い出すように、ゆっくりと言った。




「詠月(よづき)という名前だった」




その瞬間、周りの音が遠くなった気がした。




「……詠月」




自分の口から、母の名前がこぼれる。

詠月。

父さんが口にするときの、少しだけ低くなる声。

母が残した帳面の端に書かれた文字。

私の記憶の中にいる人。

それが今、母を知らないはずの人の口から出た。

私は紙を握る指に力を込めた。




「いつ頃ですか?」

「もうずいぶん前だ」

「私が小さい頃?」

「さっきあんたが言ってたのと同じ時期…それこそ6、7年前くらいだったと思う」

「母は……一人で来たんですか?」




男は頷いた。




「一人だった」

「どれくらいここに?」

「長くはなかった」

「何度も来たんですか?」

「あぁ。一度だけじゃない」




私は顔を上げた。




「……何度も?」

「あぁ」




男は思い出すように目を細めた。




「最初に来たときは、印のことを聞いた」

「二度目は?」

「水辺で亡くなった人間のことだったかな」




心臓が、また大きく鳴った。

母の記録。

東の水門。

水辺の死者。

印。

そして、ここ。

全部が少しずつ近づいている。

けれど、まだ繋がらない。

私は急いで尋ねた。




「母は、この印が何なのか知りたがっていたんですか?」

「そうだったと思う」

「意味を聞いていましたか?」

「聞いてたよ」

「それで?」




男は首を横に振った。




「俺は詳しく知らないって答えた」

「……そうですか」

「だから、たいしたことは話してない」




男はそう言った。

けれど、私は思った。

たいしたことがないのなら。

どうして母さんは何度もここへ来たのだろう。

どうして、記録を残したのだろう。

どうして、あの印を書き写したのだろう。

私は紙の上の形を見つめた。

母さんが見たもの。

母さんが聞いたもの。

母さんが追っていたもの。

その一つが、今ようやく私の目の前に姿を現した。




「母は……何を聞いていたの?」




私は顔を上げた。

男はしばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。




「死んだ人間についてだよ」




風が吹いた。

店先に吊るされた布が、大きく揺れた。

私は何も言えなかった。

死んだ人間。

その言葉だけが、頭の中に残った。

母さんは何を知ろうとしていたのだろう。

死者のことなら、母さんは誰よりも知っていたはずだ。

遺体の傷。

死因。

身体に残された変化。

生きていた時間の痕跡。

母さんは、それを調べる人だった。

それなのに。

母さんは、なぜここでまで「死んだ人間」について尋ねていたのだろう。




私は紙をゆっくりと畳んだ。

印は、まだ何も語らない。

けれど、母さんの名前を知っている人間がいた。

母さんはここへ来ていた。

そして_____

私がまだ知らない何かを、ここで尋ねていた。

私は店を出た。

夕方の光が、通りいっぱいに広がっている。

昨日と同じ町。

いつもと変わらない人々。

その中を歩きながら、私は母さんの名前を何度も心の中で繰り返した。

詠月。

母は、確かにここに来ていた。




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