第三章 教団 ep.67
次の日、私は一枚の紙を持って町を歩いていた。
母さんの記録に残されていた印を、簡単に写したものだった。
紙の上に描いたのは、円と線。
歪んだ星のようにも見える形。
いくつかの線が交差して、鉤のような部分を作っている。
母さんが残したものを、そのまま写しただけなのに、何度見ても落ち着かない。
昨日聞いた言葉が、頭の中に残っていた。
_____死んだ人は、水に帰るんだよ。
あの店主は、何も知らなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
あの人はただ、昔から聞いてきた話を口にしただけだった。
なら、この印も同じなのだろうか。
昔からある、ただの形。
意味を知る人もいれば、知らない人もいる。
私はそう考えながら歩いていた。
けれど、母さんはこの印を記録に残している。
それも、一度だけではない。
別の記録にも、似た形が残されていた。
だから私は、もう一度だけ確かめてみることにした。
探す、と決めたわけではない。
昨日の店主のように、たまたま知っている人がいるかもしれない。
そんな程度だった。
町の中には、古いものがたくさんある。
店の看板。
家の柱。
水門へ続く道の標。
使われなくなった木箱や、古い道具。
長くこの土地に住んでいる人なら、何か知っているかもしれない。
私は何軒かの店を覗いた。
けれど、聞いてみても反応は同じだった。
「知らないな」
「昔の模様じゃないか?」
「見たことはある気がするけど……」
そこで終わる。
誰も気に留めない。
私自身も、だんだん自分が何を探しているのか分からなくなってきた。
母が調べていたもの。
水辺。
死者。
そして、この印。
どれも、少しずつ繋がっているようで、決して一つにはならない。
私は通りの端にある小さな店の前で足を止めた。
古い道具を扱っている店だった。
表には農具や桶、それから水を汲むための道具が並べられている。
店の中には、年配の男が一人いた。
六十を過ぎているだろう。
白くなった髪を後ろでまとめ、古い木の道具を磨いている。
私はしばらく店先を眺めた。
何となく、この人なら昔のことを知っているかもしれないと思った。
けれど、そんな予感だけで聞くのも妙な話だった。
私は店に入った。
「すみません」
「はいよ」
男が顔を上げる。
「少し聞きたいことがあるんですが」
「何だい?」
私は懐から紙を出した。
母の印を写した紙。
「これなんですけど」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
本当に、一瞬だけ。
けれど、私は見逃さなかった。
それまで穏やかだった男の目が、紙の上に描かれた形へ向けられる。
眉がわずかに動いた。
口元から笑みが消えた。
「……それ」
男が言った。
私は紙を持ったまま、黙っていた。
「どこで見た?」
声の調子が変わっていた。
大きくなったわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、さっきまでとは違う。
慎重になっている。
私は答えに迷った。
母の記録にあった、と言うべきか。
それとも、別の場所で見たことにするべきか。
少し考えてから、私は言った。
「古い記録の中で見ました」
男は私を見る。
「誰の記録だ?」
「それは……」
母の名前を出すか迷った。
けれど、母のことを話した途端、この人の反応が変わる可能性がある。
私は質問を返した。
「この印を、ご存じなんですか?」
男はすぐには答えなかった。
紙から目を離し、店の外を見る。
通りを人が歩いている。
子どもの声がする。
少し離れたところでは、店先の荷物を運ぶ音が聞こえている。
いつも通りの町だった。
それなのに、店の中だけが少し静かになったように感じた。
「……昔、見たことがある」
ようやく男が言った。
「どこでですか?」
「いろんなところだ」
「いろんなところ?」
「ああ」
男は紙を見ながら言った。
「昔の家や、古い道具に描かれてることがある」
私は息を止めた。
「何の印なんですか?」
男は答えなかった。
「意味は?」
「知らない」
「でも、知っているんですよね?」
男が顔を上げた。
その目に、怒りはなかった。
ただ、少し困ったような色があった。
「知っているというほどじゃない」
「それでも、さっき……」
「見たことがあるだけだ」
男は穏やかに遮った。
私は黙った。
確かに、最初に紙を見たときの反応は明らかだった。
知らない人間の反応ではない。
少なくとも、何かを知っている。
けれど、それ以上を話したくないのだろう。
私は紙をしまおうとした。
そのとき、男がぽつりと言った。
「その印、どこかで見つけたのか?」
「はい」
「水の近くか?」
私は手を止めた。
「……どうして、そう思うんですか?」
男は答えなかった。
代わりに、少しだけ目を伏せた。
「昔、そういう場所で見たことがある」
「水辺で?」
「ああ」
私は昨日の店主の言葉を思い出した。
水へ帰る。
死者を送る。
水辺で祈る人。
そして、この印。
けれど、それらを結びつけるには、まだ何かが足りない。
私はもう一度尋ねた。
「この印は、死者に関係するものなんですか?」
男の表情が、またわずかに揺れた。
今度は、はっきり分かった。
知っている。
少なくとも、何かを知っている。
けれど男は、しばらく黙ったあと、
「……昔のことだよ」
とだけ言った。
「昔からあるものなんですか?」
「そういう話だ」
「誰が使っていたんですか?」
男は小さく息を吐いた。
「それは、俺にも分からない」
嘘をついているようには見えなかった。
ただ、本当に知らないのか。
知っているけれど話せないのか。
私には判断できなかった。
私は紙をしまった。
「ありがとうございました」
店を出ようとしたとき、背後から声がした。
「待ちな」
振り返る。
男は店の奥からこちらを見ていた。
その顔は、先ほどよりも真剣だった。
「……その印については」
一度、言葉を切る。
「……あまり人に聞かない方がいい」
「どうしてですか?」
男は答えなかった。
ただ、少し困ったように眉を寄せた。
「昔から、そういうものなんだ」
それだけだった。
私は店を出た。
外へ出ると、さっきまで聞こえていた町の音が急に大きく感じられた。
荷車の車輪が石畳を擦る音。
店先で交わされる笑い声。
遠くから聞こえる子どもの声。
何も変わっていない。
けれど、私の中では一つだけ変わった。
この印を知っている人間がいる。
今まで私は、母の記録に残されたものを見ていただけだった。
それが何なのかも分からない。
誰が使うのかも分からない。
ただの古い形なのかもしれないと思っていた。
けれど、違う。
少なくとも、あの人は知っていた。
そして_____
聞かない方がいいと言った。
私は歩きながら、懐の中にある紙をそっと押さえた。
母さんは、この印を見つけた。
そして、記録に残した。
そのあとで何を知ったのだろう。
私はまだ知らない。
ただ、今までより一つだけ確かなことがあった。
この印には、意味がある。
そして、その意味を知っている人間は、今もどこかにいる。




