第三章 教団 ep.66
その日は、母さんの記録を調べるのをやめた。
正確には、やめようと思った。
朝から机に向かっていたけれど、何度同じ頁を開いても、そこから先へ進めない。
机の上には、母さんの残した帳面が何冊も積まれている。
古い紙は少し黄ばんでいて、頁をめくるたびに乾いた音がする。
窓から入る風に紙の端が揺れ、そのたびに私は指で押さえた。
水。
死者。
還る。
流れる。
そして、人。
何度も見た言葉だった。
母さんが残した記録には、同じような言葉が繰り返し出てくる。
けれど、それらをどう繋げればいいのかは、まだ分からない。
「……」
私は筆を置いた。
墨はまだ乾ききっていない。
細い筆先から落ちた一滴が、硯の中でゆっくり広がっていく。
それをぼんやり眺めていると、胸の奥に小さな疲れが溜まっていることに気づいた。
調べれば調べるほど、分からないことが増えていく。
名前のない集まり。
水辺で祈る人。
死者を送る人。
母さんが誰かを追っていたことは分かる。
けれど、その「誰か」がどんな人間なのかは、ほとんど見えてこない。
私は帳面を閉じた。
今日はもういい。
分からないものを無理に追いかけても、きっと何も見えない。
それより、検死室へ行かなければならない。
死者は、待ってくれない。
その日の検死を終えた頃には、日が少し傾いていた。
建物の外へ出ると、昼間よりも風が冷たくなっている。
秋の気配が、ほんの少し混じっていた。
空はまだ明るい。
けれど、屋根の影は長く伸びて、道の端には夕方の色が溜まり始めている。
私は肩に掛けた荷物を持ち直した。
今日は寄り道をせず、そのまま帰るつもりだった。
母さんの記録のことも、今日はもう考えない。
そう決めて歩き始めた。
けれど、しばらく歩いたところで、腹のあたりに空腹を感じた。
朝から何も食べていなかった。
検死の途中では気にならなかったのに、仕事が終わると急に身体が思い出したように空腹を訴えてくる。
私は通り沿いの店を眺めながら歩いた。
焼いた魚の匂い。
煮物の甘い香り。
どこかの家から流れてくる湯気。
夕食の支度を始める時間なのだろう。
通りを行き交う人も、昼間とは少し違っていた。
仕事を終えた人。
買い物袋を抱えた人。
子どもの手を引く人。
店先では、今日一日の売り上げを計算している者もいる。
そんな人たちの間を歩いていると、母さんの記録を調べていたことが、少し遠いことのように思えてきた。
私は普通の道を歩いている。
普通の人たちの中にいる。
それだけのことだった。
そのときだった。
通りの角にある小さな店から、子どもの声が聞こえた。
「待って!」
「だから走るなって」
男の声が続く。
私は何気なくそちらを見た。
乾物や調味料、それから日用品を扱っている小さな店だった。
店先には木箱がいくつか並べられ、その横に野菜が積まれている。
以前にも何度か通ったことがある。
店主の顔も、なんとなく覚えていた。
四十代くらいの男で、いつも店先に座っている。
今日は、その男が小さな女の子の前にしゃがみ込んでいた。
「転んだらどうする」
「転ばないもん」
「さっき転びかけただろ」
「転んでないよ」
「そういうのを転びかけたって言うんだ」
男は真面目な顔をしている。
けれど、女の子は全く気にしていない。
「猫がいたんだもん」
「猫を追いかけて、商品にぶつかったらどうする」
「ぶつからないよ」
「お父さんは心配してるんだ」
「お父さんが?」
「ああ」
男がそう言うと、女の子が少しだけ笑った。
「お父さん、心配性」
「誰のせいだと思ってる」
その言葉に、女の子が声を上げて笑う。
男も結局、つられて笑った。
私は足を止めたまま、その光景を見ていた。
なんでもない。
本当に、なんでもない光景だった。
父親と娘。
店先。
夕方の通り。
それだけ。
そのとき、店の奥から女性が出てきた。
男の妻らしい。
手には布巾を持っている。
「また甘やかしてる」
「甘やかしてない」
「同じことを毎日言ってるだけじゃない」
「心配してるだけだ」
「それを甘やかしてるっていうの」
「違う」
二人が言い合っている。
女の子は、その隙に店の奥へ走っていった。
「こら!」
男が慌てて追いかける。
妻が笑っている。
私は思わず口元を緩めた。
こういうものを見ると、不思議と肩の力が抜ける。
検死室にいる間は、死者の身体から目を離せない。
傷がどこにあるのか。
いつできたものなのか。
生きている間についたものなのか。
死んでからついたものなのか。
一つひとつを見落とさないようにする。
だから、仕事を終えてこういう光景を見ると、世界にはまだ、自分が見なくてもいいものがたくさんあるのだと思う。
笑い声。
夕食の匂い。
子どもの足音。
誰かが誰かを心配する声。
私はそのまま通り過ぎようとした。
そのとき、店先に置かれた古い木箱が目に入った。
蓋の端に、傷のような模様がついている。
円。
線。
いくつかの線が交差している。
私は一瞬だけ足を止めた。
見覚えがあるような、ないような。
母さんの記録に残っていた印を思い出す。
けれど、よく見ると違った。
似ているだけだ。
私はそれ以上考えず、歩き出そうとした。
「それ、古いから気をつけてな」
店主が声を掛けてきた。
「え?」
「その箱」
男が顎で木箱を示す。
「もうだいぶ古いんだ。壊れても困るから」
「あぁ……すみません」
「いや、別に触ってないならいいんだけど」
男は笑った。
私は木箱を見た。
「昔からあるんですか?」
「そうだな。俺が店を継ぐ前からあった」
「何に使うものなんですか?」
「さぁ」
男はあっさり答えた。
「親父も知らなかったよ」
「そうなんですか」
「ただ、捨てるのもなんだしな。ずっと置いてある」
それだけだった。
私はまた歩き出そうとした。
けれど、なぜか一つだけ気になった。
「……この辺りでは、昔から水にまつわる風習ってありますか?」
口にしてから、自分でも少し不思議な質問だと思った。
母の記録のことを調べるつもりはなかった。
今日はもうやめたはずだった。
それなのに、目の前に似たような形を見つけてしまったせいなのかもしれない。
男は首を傾げた。
「水?」
「はい」
「水にまつわるって言われてもなあ」
男は腕を組んで考えた。
妻も、隣で聞いている。
少しして、男が「あぁ」と声を漏らした。
「そういや、昔そんな話を聞いたことがあるな」
「どんな話ですか?」
「たいした話じゃないぞ」
男は笑った。
「子どもの頃、年寄りから聞いただけだ」
「それでも、教えてもらえますか?」
「いいけど」
男は店先の椅子に腰を下ろした。
夕方の光が、店の軒先を斜めに照らしている。
その光の中で、男の顔には疲れが少し浮かんでいた。
きっと今日も一日働いていたのだろう。
手には細かな傷があり、爪の間には仕事の跡が残っている。
私は何となく、その人を見ていた。
「昔はな」
男が話し始めた。
「人が死んだら、水へ帰るって言ったらしい」
私は瞬きをした。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
けれど、男は気づいていない。
「……水へ、帰る?」
「あぁ」
男は川のある方へ目を向けた。
「死んだ人は、ずっとその場所にいるんじゃない。水が流れていくみたいに、その人もどこかへ帰っていくんだってさ」
妻が布巾を持ったまま口を挟んだ。
「あなた、それ、子どもに聞かせて怖がらせないでよ」
「怖い話じゃないって」
「私は嫌だったわよ。子どもの頃に聞いたとき」
「そうだったか?」
「そうよ」
妻は呆れたように笑った。
男も笑う。
「まあ、昔の話だからな」
「今も信じてるの?」
妻が冗談めかして尋ねた。
男は少し考えた。
そして、
「どうだろうな」
と笑った。
「ただ、なんとなく分かる気はするけどな」
「何が?」
「人が死んだら、いつまでもそこに留まってるわけじゃないってこと」
男はそう言って、通りの先を見た。
そこには夕暮れの光が落ちていた。
人々が行き交い、その向こうに川の水面がわずかに見える。
「水って、ずっと流れてるだろ」
男は言った。
「だから、死んだ人も水に帰るんだってさ」
私は何も言えなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
男の声には、何かを信じ込ませようとする強さはなかった。
誰かに教えようとしているわけでもない。
ただ、自分が昔から聞いてきたことを、昔話の一つとして話している。
娘を心配して。
妻に小言を言われて。
店の片付けをしながら。
そんな普通の暮らしの中に、その考え方が当たり前のように存在している。
私は男の顔を見た。
怪しいところなんて、どこにもない。
この人が何か悪いことをしているようには見えない。
むしろ、さっきまで娘の転びそうな姿を見て慌てていた父親の顔の方が、ずっと強く印象に残っている。
それなのに。
その人が、何気なく言った。
「死んだ人は、水に帰るんだよ」
母の記録が、頭の中に浮かんだ。
水辺で祈る人。
死者を送る人。
そして______
死者を水へ帰すという考え方。
私は小さく息を吐いた。
一つひとつなら、何もおかしくない。
昔からある言い伝えかもしれない。
この土地だけに残る風習かもしれない。
誰かが昔話として語り継いでいるだけかもしれない。
けれど、母はそれを調べていた。
そして、私も今日、その言葉を聞いた。
偶然。
本当に、ただの偶然だった。
私は店を出た。
背中から、男と妻の声が聞こえる。
「ほら、片付けるぞ」
「お腹すいたー」
「さっきお菓子食べただろ」
「お菓子とご飯は別!」
「はいはい」
また笑い声が聞こえた。
私は一度だけ振り返った。
店の明かりが、少しずつ夕暮れの中で目立ち始めている。
男はもう、私のことなど見ていなかった。
いつものように家族と話しながら、店を片付けている。
私は歩き出した。
さっきまでとは、少しだけ違う気持ちだった。
母が探していたものは、特別な場所にいる特別な人間だけが持っているものではないのかもしれない。
もっと普通の場所に。
もっと普通の人の中に。
何気ない言葉として残っているのかもしれない。
私は歩きながら、何度もその言葉を思い返した。
_____死んだ人は、水に帰るんだよ。
その言葉の意味が、まだ私には分からない。
けれど。
母はきっと、この言葉をどこかで聞いていた。
そして、聞いただけでは終わらせなかった。
何故、母はこれを調べたのだろう。
誰が言い始めたのか。
いつから残っているのか。
どうして、水なのか。
私は歩みを止めなかった。
今日は探していなかった。
それなのに、また一つだけ、母が残した問いに近づいてしまったような気がした。




