第三章 教団 ep.64
朝の検死室は、いつも静かだった。
外では人の声がしている。
荷車が石畳を走る音も聞こえるし、遠くから店を開ける音もする。
けれど、この部屋の中へ入ると、それらは厚い壁に遮られて、ずいぶん遠いものに感じられた。
ここでは、時間の流れ方まで少し違うような気がする。
生きている人間の時間ではなく、死んだ人間の時間に合わせて動いているような。
私はそう思いながら、検死台の横に立っていた。
今日の遺体は、五十代ほどの男性だった。
身元は確認されている。
昨夜、自宅で亡くなっているところを家族が発見したらしい。
病気の記録はある。
長く患っていたわけではないが、数年前から身体の不調を訴えることがあったという。
父さんは遺体の足元から、ゆっくりと視線を上げていった。
腕。
腹。
胸。
首。
顔。
まるで身体全体を一枚の絵として見るように、細かなところへすぐに目を向けることはしない。
まず全体を見る。
私はそれを知っていた。
父さんは、最初から傷を探しているわけではない。
傷があるかどうかより先に、遺体そのものが何を示しているのかを見ている。
「斑」
「はい」
「まず外見を記録しろ」
斑が紙を手元へ引き寄せる。
「五十代男性。身長……」
淡々とした声が響く。
その横で、父さんが遺体の顔を確認している。
私は身体の右側へ回った。
まず、腕を見る。
皮膚の色。
手指の状態。
爪。
目立った傷はない。
そのまま肩へ視線を移す。
そこで、ほんの小さな違和感があった。
「父さん」
「なんだ」
「左肩、少し色が違う」
父さんがこちらへ目を向けた。
「どこだ」
私は指を近づける。
「ここ。右と比べると、少しだけ」
父さんは私の示した場所を見た。
それから、反対側の肩を見る。
「……確かに違うな」
斑が筆を止めた。
「記録しますか?」
「まだだ」
父さんはそう言って、遺体の肩を慎重に確認した。
押したときの状態。
皮膚の変化。
周辺の色。
いくつか確認してから、ようやく口を開く。
「圧迫された可能性がある」
「死後のものでは?」
「それも考える。だから今は書かない」
私は頷いた。
以前なら、私はここで父さんの答えを待っていた。
父さんが「これはこうだ」と言うのを聞いて、それを覚えようとしていた。
けれど最近は、少し違う。
父さんが何を言うかを待つ前に、自分で考えるようになった。
この色はいつできたものなのか。
身体が動いたことで生じたものではないか。
それとも、亡くなる前に何かがあったのか。
答えはまだ出ない。
でも、分からないなら分からないまま、次を見る。
それが少しずつできるようになっていた。
「胸部に目立った外傷なし」
斑が記録を続ける。
「腹部も同様」
「脚は?」
「右脚に古い傷がある」
私はしゃがみ込み、脚を見る。
「確かに古い」
「根拠は?」
「傷の周囲に新しい腫れがない。皮膚の状態も、今できたものとは違う」
父さんがこちらを見る。
「そう判断したか」
「うん」
「なら、記録しておけ」
「分かりました」
斑が書き留める。
そのやり取りが、妙に自然だった。
私は少しだけ驚いた。
以前なら、父さんに確認してからでなければ言えなかったことを、自分の判断として口にしている。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
間違えることもあるだろう。
それでも、私は自分で見て、自分で考えた。
それだけのことが、以前とは違っていた。
検死は、三人でやっていても同じものを見ているわけではない。
父さんは、身体全体を見る。
斑は、見つかったものを一つずつ記録する。
私は、身体に残った小さな変化を拾う。
同じ遺体を見ているのに、目を向ける場所が少しずつ違う。
父さんが身体の状態から死に至るまでの流れを考え、斑がそれを記録として残し、私はその間にある小さな違和感を探す。
以前の私は、父さんと同じように見ようとしていた。
父さんがどこを見るのか。
どんな順番で調べるのか。
どんな言葉を使うのか。
それを覚えれば、いつか父さんと同じ検死役になれると思っていた。
けれど。
最近は、そうではないのかもしれないと思う。
父さんが見ない場所を見ることがある。
斑が記録しなかった小さな違和感が気になることもある。
逆に、私には重要に思えたものが、検死の結果にはほとんど関係しないこともある。
それでもいいのだと思えるようになってきた。
父さんと同じになる必要はない。
斑と同じである必要もない。
私が見つけたものを、私の目で確かめればいい。
遺体の検査を終え、最後の確認に入る。
「死因はどう見る?」
父さんが尋ねた。
私は遺体を見た。
今日確認した身体の状態。
目立った外傷がないこと。
そして、持病の記録。
「今のところ、病死の可能性が高いと思う」
「根拠は?」
「外傷が死因になったとは考えにくいことと、身体の状態が持病の記録と大きく矛盾していないから」
父さんはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「そうだな」
それだけだった。
けれど私は、その一言が少し嬉しかった。
検死室の中に、紙を擦る音が響く。
斑が最後の記録を書き終える。
「終わりました」
「なら、片付けるぞ」
父さんが器具を戻していく。
私も手袋を外した。
静かな部屋に、三人分の小さな音が重なる。
いつもの検死室。
いつもの仕事。
いつもの一日。
母さんの記録を調べている今も、ここだけは変わらない。
死者は、今日も運ばれてくる。
私たちは、その身体を見る。
名前を確認し、年齢を確認し、傷を確認する。
分かることを書き、分からないことは分からないまま残す。
そして、次の遺体を待つ。
それだけだった。
けれど。
検死室を出ようとしたとき、斑が私の横に並んだ。
「なぁ、紗詠」
「何?」
斑は少しだけ私を見る。
いつもの、何を考えているのか分かりにくい顔だった。
「前より、死体を見る目が変わったな」
私は足を止めた。
「……そう?」
「あぁ」
斑はそれ以上、詳しく説明しなかった。
私は検死台を振り返った。
そこには、もう誰もいない。
けれど、さっきまでそこにあった身体を思い出す。
父さんの見方。
斑の記録。
そして、私自身の見方。
少しずつ違う。
だからこそ、私は私の目で見ていけばいい。
そう思った。




