第三章 教団 ep.63
昨夜から、妙に落ち着かなかった。
何かを見られているような気がする。
そう思ってしまうと、街を歩いていても、背後を通り過ぎる足音が気になった。
店先で立ち止まれば、誰かがこちらを見ているように思える。
振り返っても、そこにいるのは買い物をしている人や、荷物を運んでいる人ばかりで、私を見ていると断言できるような人はいない。
気にしすぎなのかもしれない。
昨日の男が言ったことを、必要以上に意識しているだけなのだろう。
それでも。
中央は、思っているよりもよく人を見ている。
その言葉は、頭から離れてくれなかった。
だから今日は、街へ調査には出なかった。
代わりに私は、母さんの記録を机の上に並べていた。
母さんが亡くなってから、何度も開いてきた記録だった。
検死の手順。
身体の見方。
傷の種類。
死斑や硬直についての覚え書き。
どれも、幼い頃の私には意味が分からなかった。
大人になってから読み返して、ようやく理解できるものも多い。
だから私は、ずっとそういう記録だと思っていた。
母は検死役だった。
だから、検死について書いている。
ただ、それだけだと。
私は最初の一冊を開いた。
古い紙の匂いがする。
何度も触れたせいで、端が少し丸くなっている。
頁を捲る。
身体の構造について書かれた頁。
次に、傷について。
その次には、ある遺体の検死結果。
いつもなら、そこで終わっていた。
けれど今日は違った。
私は、検死とは関係のない部分まで注意して読むことにした。
すると。
ひとつの言葉が目に入った。
_____水。
その文字の横には、簡単な走り書きがあった。
水辺で発見された遺体。
流れによる損傷。
水に触れた身体の変化。
そこまでは、検死役として記録していても不思議ではない。
私はその頁をめくった。
また、水という文字が出てきた。
さらに別の頁には、
_____還る。
と書かれている。
私は眉を寄せた。
その言葉は、検死の記録には少し不自然だった。
さらに読み進める。
_____流れる。
_____死者。
_____水へ。
同じ言葉が、別々の記録の中に何度も現れる。
たまたまなのだろうか。
私は最初、そう思った。
水辺で見つかった遺体を調べれば、水という言葉が増えるのは当然だ。
死者について書くのだから、「死者」という言葉が出てくるのも当たり前。
そうやって一つずつ理由をつけていった。
けれど。
記録を読み進めるほど、それだけでは説明できないことに気づいていった。
母さんは、遺体についてだけを書いているのではなかった。
ある頁には、こんな言葉が残されていた。
_____この地方では、死者を水へ還すという。
別の頁には、
_____流れに託すことで、残された者は死者を送り出す。
さらに別の頁には、
_____「戻る」という表現を使う者が多い。
私は、そこで手を止めた。
これは、検死の知識ではない。
少なくとも、私が今までそう思っていた「検死についての記録」とは違う。
母さんは、死体を調べていた。
でも、それだけではなかった。
死んだ人間を、周囲の人々がどう考えているのか。
死者をどう扱い、どんな言葉で送り、何を信じているのか。
そういうものまで、母さんは記録していた。
私は椅子に座り直した。
窓の外を見る。
今日は薄曇りだった。
街はいつも通り動いている。
人が歩いている。
店が開いている。
誰かが笑っている。
昨日、声をかけてきた男の姿はない。
それでも私は、昨日よりも慎重に窓の外を見た。
中央に見られているかもしれない。
その可能性は、まだ消えていない。
なら、調べるのをやめるべきなのか。
一瞬だけ、そう思った。
けれど、母さんの記録へ視線を戻す。
母さんも、これを調べていた。
何年も前に。
私がまだ何も知らなかった頃に。
母さんは水辺へ行き、死者を調べ、その周りにいる人々の言葉まで拾っていた。
そして、記録に残した。
どうしてだろう。
ただの風習なら、ここまで書く必要はない。
ただの葬送の形なら、検死の記録とは別に一冊まとめればいい。
なのに母さんは、検死の記録の中に、それらを残している。
遺体と一緒に。
死因や傷と一緒に。
私はもう一度、頁を最初から見返した。
そこには、母さんの筆跡がある。
細く、少し右へ傾いた文字。
子どもの頃から見慣れていた文字だった。
けれど今は、それが知らない人の書いたもののように感じられた。
母さんは、私の知らないところで何かを調べていた。
そして、それを私に話さなかった。
父も話さない。
斑も、何かを知っている。
昨日は中央の人間まで、遠回しに釘を刺してきた。
ここまで重なると、もう偶然だとは思えなかった。
私は記録を一枚ずつ並べた。
水。
死者。
還る。
流れる。
それぞれ別々に書かれていた言葉を、頭の中で繋げていく。
すると、今までただの記録に見えていた母さんの文字が、少しずつ別の形を持ちはじめた。
母さんは、死体を見ていた。
その死体がどこで見つかったのかも見ていた。
そして、その周りにいる人間が何を語っていたのかも見ていた。
なぜ。
そこまでして、何を探していたのだろう。
私は一番最後の頁を開いた。
そこには、途中で書くのをやめたような記録が残っていた。
文章は短かった。
けれど、その一文を見た瞬間。
私は息を止めた。
母さんの筆跡で、こう書かれていた。
_____この考え方を、誰が広めている?
私はしばらく、その文字から目を離せなかった。
母さんは、風習を記録していたのではない。
その風習が、どこから来たのかを探していた。
そして、その先に何があったのか。
私はまだ知らない。
けれど、知りたいと思った。
昨日の男の言葉が、もう一度頭をよぎる。
知らない方がいいこともある。
私は記録へ手を置いた。
怖くないわけではない。
それでも、ここで閉じることは、もうできなかった。
母が途中で残したものを、今度は私が追う。
誰かに見られているのなら、それでもいい。
私はもう一度、最初の頁を開いた。




