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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.62




検死を終えた頃には、外はもう夕暮れに近づいていた。

検死室に差し込んでいた白い光は薄くなり、壁際に置かれた器具の影が、昼間よりも長く伸びている。

最後の記録を確認して、私は筆を置いた。




「俺は先に帰るぞ」




父さんがそう言って、記録をまとめる。




「うん」

「斑も帰るだろ」

「はい」




斑は返事をしながら、私の机の上をちらりと見た。

そこには、検死とは直接関係のない古い地誌が一冊置かれている。

昼間、休憩の合間に記録室から持ってきたものだった。

斑は何も言わなかった。

ただ、一瞬だけ私を見る。

その視線に気づいた私は、何となく目を逸らした。




「紗詠は?」

「少しだけ調べてから帰る」

「遅くなるなよ」




父さんはそれだけ言って、先に検死室を出ていった。

斑も後に続く。

扉が閉まる直前、彼が振り返った。




「……無理すんなよ」

「分かってる」




扉が閉じた。

足音が遠ざかっていく。

私は一人になった検死室を見回した。

静かだった。

昼間は三人分の声や、器具の触れ合う音が絶えず響いていたのに、二人がいなくなると、建物そのものが急に広くなったように感じる。

私はしばらく机に残った記録を整理していたが、やはり気になっていた。

昨日、店主から聞いた言葉。




_____水に流してやる。




それがただの古い言い回しなのか、それとも母さんの調べていたものと何か関係があるのか。

まだ分からない。

だから、もう少しだけ調べたかった。

私は記録室へ向かった。




記録室には、古い紙の匂いが染みついている。

棚に並んだ記録を一冊ずつ確認しながら、水や葬送、地域の風習について書かれたものを探していく。

古い記録は、同じ内容でも書き方が違う。

同じ土地の話なのに、年代によって呼び方が変わっていることもある。

私は見つけた記述をいくつか書き写した。

水へ送る。

水へ還す。

流れに託す。

どれも、昨日の店主の言葉と完全に一致するわけではない。

それでも、どこか似ていた。

私はその違いを確かめるために、もう一冊、棚の奥から古い記録を取り出した。




気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

遠くで人の話し声が聞こえる。

そろそろ帰らなければならない。

私は本を閉じ、借りた記録を元の場所へ戻した。

それから一人で検死棟を出た。




外へ出ると、夕方の空気は思っていたより冷たかった。

昼間の熱が少しずつ失われて、石畳の上を通る風が肌を撫でていく。

私は門を出ようとした。

そのときだった。




「君」




後ろから声がした。

私は足を止めた。

振り返る。

そこに立っていたのは、見覚えのない男だった。

年齢は父より若い。

けれど、斑よりは明らかに上に見える。

仕立ての良い衣服。

汚れのない靴。

検死役が身につけるものとは違う、中央の人間だと分かる装いだった。




「……私ですか?」

「ああ」




男は私を見た。

いや。

見たというより、観察していた。

顔。

服。

手。

それから、検死棟の建物へ一度だけ視線を向ける。

まるで品物の状態を確かめるような目だった。




「君、ここで働いているんだね」

「……はい。まだ見習いですが」

「検死役のところで?」

「そうです」




男は小さく頷いた。




「そうか」




それだけ言って、少し黙る。

私は何を聞かれているのか分からなかった。

けれど、帰っていいとも言われない。

妙な沈黙だった。




「最近、この辺りを妙に歩き回っている者がいるらしい」




男が言った。

胸の奥が、ほんの少しだけ固くなった。




「……そうなんですか」

「ああ」




男は淡々と続けた。




「同じ場所を何度も見て回ったり、古い記録を調べたり、昔のことを尋ねたりする者だそうだ」




私は何も答えなかった。

男はそんな私を見て、わずかに目を細める。




「珍しいことではない。何かを調べたい人間というのは、どこにでもいるからね」

「……はい」

「ただ」




男の声が少しだけ低くなった。




「中央というのは、思っているよりもよく人を見ている」




風が吹いた。

男の衣服の裾がわずかに揺れる。

私はその言葉を聞きながら、じっと男の顔を見た。

この人は、何を知っている。

けれど、何を知っているのかを言うつもりはない。

それだけは分かった。




「君も、仕事以外であまり余計なところへ行かない方がいい」

「……余計なところ、というのは?」




聞き返すと、男は少しだけ笑った。

笑った、と言っても親しみのあるものではない。




「さあ」




それだけだった。

まるで、私が自分で分かることを期待しているような笑い方だった。




「知らない方がいいこともある。そういうことだよ」




私は黙った。

男はそれ以上、何も言わなかった。

名前も名乗らない。

私が何をしたのかも言わない。

ただ、最後にもう一度だけ私を見た。

その目が、やはり気持ち悪いほど静かだった。




「夜道には気をつけて」




そう言って、男は私の横を通り過ぎていった。

足音が石畳の上を遠ざかっていく。

私はその場から動けなかった。

中央が、人を見ている。

その言葉だけが、頭の中に残っていた。

誰のことを言っていたのか。

何を見ているのか。

それは最後まで聞けなかった。

けれど。

男が口にしたことのいくつかは、私がここ最近していたことと重なっていた。

古い記録を調べる。

昔のことを尋ねる。

同じ場所を何度も歩く。

偶然だと思えば、それで済む。

私以外にも、そんな人間がいるのかもしれない。

けれど、そう思おうとすると、さっきの男の目が思い出された。

あの目は、何かを探している人間を見る目ではなかった。

すでに何かを知っていて、それを確かめるような目だった。




私はゆっくりと振り返った。

検死棟は、いつもと変わらない姿でそこに建っている。

古い壁。

閉じられた扉。

夕暮れの中に沈んでいく建物。

私はその建物をしばらく見つめた。

そして、ふと思った。

母さんも。

こんなふうに、誰かに見られていたのだろうか。

その考えが浮かんだ瞬間、背中を冷たいものが走った。

私はそれ以上考えないようにして、帰路へ足を向けた。

けれどその日から、街を歩くとき。

私は初めて、自分が見ているものだけではなく_____

誰かに見られていないかどうかまで、気にするようになった。




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