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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第三章 教団 ep.61




『水に流してやる』。




あの言葉が、頭から離れなかった。

店主にとっては、ただ昔から聞いていたというだけの話だった。

特別な意味を込めたわけでもなく、誰かを警戒する様子もなかった。

ただ、古い木片に残された形について尋ねられたから、知っていることを話した。

それだけのことだった。

けれど私にとっては、そう簡単に流してしまえる言葉ではなかった。

母の記録に残されていた印。

水辺に残された印。

東の水門。

そして、今聞いた「水に流してやる」という言葉。

偶然なのかもしれない。

だからこそ、調べてみることにした。




その日の夜、私は机の上に古い地誌や風習についてまとめられた本を何冊も広げた。

紙をめくるたびに、乾いた音が部屋の中へ落ちていく。

最初に見つけたのは、葬送について書かれた古い記録だった。

地域によって、死者の送り方には違いがある。

土へ還す土地もあれば、火へ送る土地もある。

そして、水へ送る土地もある。

私はそこに書かれた一文を、何度も読み返した。

死者を水へ送る。

水へ還す。

そうした考え方が、昔の一部の地域にはあったらしい。

亡くなった者にまつわるものを水へ流し、死者をその場から送り出す。

残された者もまた、水の流れに託すことで、その人との別れを受け入れる。

そんな風習について書かれていた。

水は流れる。

同じ場所には留まらない。

だからこそ、死者を水に託す。

そうすることで、残された者もまた、その人を送り出せるのだという。




私は本を閉じて、しばらく机の上に手を置いた。

死者を水へ送る。

水へ還す。

言葉だけを聞けば、どこか優しいようにも思える。

死んだ人をその場に置き去りにするのではなく、流れの中へ送り出す。

残された者にとって、それが救いになることもあるのかもしれない。

けれど。

私はふと、検死室のことを思い出した。

私たちは、死者を流さない。

死者を、曖昧なものにもしない。

まず、その人が誰なのかを確認する。

名前。

年齢。

身体に残された傷。

死因。

必要なら、亡くなるまでに何があったのかまで調べる。

記録を書く。

一つずつ。

死者の身体に残されたものを拾い上げるようにして。

それは、私が毎日のように繰り返している仕事だった。




けれど、その日になって初めて、その行為そのものについて考えた。

なぜ、私たちはそこまで細かく残すのだろう。

死んでしまえば、もう本人は何も言えない。

自分の名前を名乗ることも。

何歳だったのかを伝えることも。

どこを怪我したのか説明することも。

どうして死んだのか訴えることもできない。

だからこそ、残った身体から拾い上げていく。

死者が最後まで持っていたものを。

その人が生きていた証拠を。

私はまだ、その意味をはっきりと言葉にはできなかった。

ただ、水へ還すという考え方と、私たちがしていることは、どこか反対側にあるような気がした。

水は、流していく。

私たちは、残していく。

その違いが、妙に気になった。




◇




翌日。

検死室には、朝から冷たい空気が満ちていた。

外は曇っていて、薄い光が白い床に落ちている。

運び込まれた遺体は、四十代ほどの男性だった。

身元はすでに確認されている。

名前も分かっている。

家族から聞き取った年齢も記録されていた。

けれど、それだけでは終わらない。

私は手袋をつけ、遺体へ向き直った。

斑が少し離れたところで記録用の紙を準備している。

父さんは反対側に立ち、いつものように黙って遺体を見ていた。




「外傷から確認する」




父さんの声に、私は頷いた。

肩。

腕。

胸部。

腹部。

脚。

目につく傷を一つずつ確認していく。

古い傷と新しい傷を分け、位置を記録する。

皮膚の色。

硬直。

死斑。

身体に残されたわずかな変化まで、見落とさないように目を向ける。




「右前腕に擦過傷」




私が言うと、斑が紙へ書き留める。




「長さは?」

「三センチほど。浅い」

「他には」

「今のところ、目立つものはない」




短いやり取りをしながら、私は遺体を見つめていた。

そこにいるのは、ただの「遺体」ではない。

昨日まで生きていた、一人の人間だ。

名前があり。

年齢があり。

誰かに呼ばれていた時間があり。

この身体で歩いて、食べて、眠っていた。

そして今、その人の代わりにここに残っているものがある。

傷がある。

死斑がある。

身体の変化がある。

それらは何も話さない。

けれど、見れば分かることがある。

調べれば分かることがある。

だから私は記録する。

名前を書く。

年齢を書く。

傷を書く。

死因を書く。

死者が何も言えないからこそ、残されたものを消さないために。




ふと、昨夜読んだ言葉が頭をよぎった。




_____水へ還す。




もし、この人を水へ送るとしたら。

ここに残っているものも、いつか流れていくのだろうか。

名前も。

傷も。

死んだ理由も。

何もかも一緒に。




私は記録用紙へ視線を落とした。

そこには、すでにこの人の名前が書かれている。

誰かが書いた名前。

私がこれから、その続きを書いていく。

死んだ人間は、自分で自分の人生を説明できない。

だから、生きている人間が代わりに残す。

それが検死役の仕事なのだと思っていた。

けれど。

その考えも、本当に私自身がそう思っているのかと問われれば、まだ分からなかった。




私は、斑から筆を受け取る。

まずは、この人の身体に残されたものを、一つずつ記録していく。

流れてしまわないように。

誰かの記憶だけに委ねてしまわないように。

そして、死んだあとも、この人が確かに一人の人間だったと分かるように。




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