第三章 教団 ep.60
記録の中から消えた一行が、本当にただの書き間違いだったのか。
あれから私は、時間があれば街を歩くようになった。
母さんの記録に残されていた印を、探すためだった。
紙の上に描かれていた形は、決して複雑なものではない。
円に近い輪郭と、その内側へ伸びるいくつかの線。
見ようによっては星にも見えるし、交差した鉤のようにも見える。
けれど、いざ街の中で探そうとすると、それらしいものは驚くほど見つからなかった。
屋根の飾り。
店先に吊るされた看板。
古い門の金具。
水路沿いの石垣。
目につくものを一つずつ眺めていったが、どれも違う。
似ているように見えても、よく見ればただの装飾だったり、昔から使われている紋様だったりする。
そもそも、私が探しているものが本当に街のどこかに残っているのかさえ分からない。
母さんの記録にあった印が、特別な意味を持つものなのか、それとも母だけが何かを示すために使った印なのか。
今の私には、そこすら判断できなかった。
それでも、歩いた。
朝の市場を抜け、昼過ぎには大通りから一本外れた細い道へ入り、夕方になる頃には川沿いまで足を伸ばした。
人の流れを眺めながら、店先を見て、壁を見て、軒下を見て。
けれど、何日歩いても、これだと思えるものはなかった。
見つからないことに焦りがあるわけではない。
むしろ、簡単に見つかってしまった方が怖かった。
母さんが残したものが何なのかも分からないまま、それだけが街のどこにでもあるようなものだったとしたら。
それはそれで、別の意味を持つ気がした。
その日も、私は当てもなく街を歩いていた。
昼を少し過ぎた頃だった。
通りには買い物を終えた人や、荷物を運ぶ人が行き交っている。
風が吹くたび、軒先に吊るされた布がゆっくりと揺れ、その隙間から差し込んだ光が道にまだらな影を落としていた。
私はいつものように、歩きながら建物を眺めていた。
けれど、そのとき。
ふと、足が止まった。
古びた店の軒先だった。
木造の小さな店で、入口の脇には籠がいくつも並べられている。
中を覗けば、日用品や乾物、それほど珍しくもないものが所狭しと置かれていた。
店の前では、年配の男が近所の女性と話をしている。
「だからさ、昨日の雨で裏の道がひどいことになってね」
「またですか? この前も直したばかりでしょう」
「そうなんだよ。もう年寄りにはきついよ」
「何言ってるんです。口だけはまだまだ元気じゃないですか」
二人が笑った。
どこにでもある、街の一場面だった。
男は店主らしく、話しながらも時々店の中へ目をやり、通りかかった客には自然に声をかけている。
特別なところは何もない。
少なくとも、私にはそう見えた。
それなのに。
店の軒を支える柱の上に、小さな木片が取り付けられているのが見えた。
何気なく視線を向けた、その瞬間だった。
胸の奥が、わずかにざわついた。
円。
その内側へ伸びる線。
交差するように曲がった形。
母さんの記録にあった印と、よく似ていた。
……似ている。
でも、同じだとは言い切れない。
私はその場に立ったまま、しばらく木片を見つめた。
近づいて見る。
古い木だった。
雨や風に晒されたせいか表面はところどころ剥げていて、線も綺麗には残っていない。
だから余計に判断がつかない。
ただの古い飾りなのかもしれない。
それでも、母さんの記録を何度も見返した私には、どうしても無関係には思えなかった。
「どうかしたかい?」
声をかけられて、私は顔を上げた。
さっきまで近所の女性と話していた店主が、こちらを見ている。
「あ……すみません」
「いや、いいけど。何か探してるのかい?」
「いえ……」
私は一度、軒先の木片へ視線を戻した。
聞くべきか迷った。
ただの飾りだったら、それでいい。
もし何か知っているなら、聞き逃したくない。
私は木片を指差した。
「これについて、少し聞きたいんですけど」
店主は私の指先を追うようにして、軒先を見上げた。
「ああ、それ?」
「はい。この形には、何か意味があるんですか?」
店主は少し考えるように眉を寄せ、それから「ああ」と小さく声を漏らした。
「昔からあるものだよ」
「昔から?」
「うん。俺が子どもの頃には、もうあったからね」
店主はそう言って、木片を眺めた。
けれど、その表情に警戒するような色はない。
懐かしいものを見るような、ごく普通の顔だった。
「どこで作られたものかとか、誰が付けたのかは知らないけどね。親父もずっと付けてたし、その前からあったんじゃないかな」
「この形を、他の場所でも見たことはありますか?」
「さあ……」
店主は通りを見回した。
「昔の家なら、似たようなのが残ってるところはあるかもしれないね。最近は新しく建て替えたり、古いものを外したりするから、あんまり見なくなったけど」
「そうですか……」
やっぱり、特別なものではないのだろうか。
母さんが何かを追っていた証拠だと思っていた。
けれど、もしこの印が昔から街のあちこちにあったものなら、母さんの記録に残っていた理由は別にあるのかもしれない。
そう考えていると、店主が何気なく付け足した。
「まあ、意味については俺も詳しくは知らないけどね」
「意味があるんですか?」
「ああ。昔、親から聞いた話だけど」
店主は少し笑った。
それは秘密を打ち明けるような笑い方ではなかった。
昔話を思い出したときに浮かぶ、ごく自然な笑みだった。
「『水に流してやる』って意味だって聞いたけどね」
私は、何も言えなかった。
風が吹いた。
軒先の木片が、かすかに揺れる。
その向こうで、誰かが笑っている。
荷車の車輪が石畳を擦る音がして、遠くでは水の流れる音まで聞こえた。
水に流してやる。
その言葉だけが、妙に鮮明に残った。
母さんの記録。
東の水門。
水辺で見つかった死者。
そして、記録から消された一行。
私はもう一度、軒先の印を見上げた。
今まで見つからなかったのは、隠されていたからではないのかもしれない。
あまりにも普通のものとして、街の中に残っていたから_____私は、それを見つけられなかっただけなのかもしれない。




