第三章 教団 ep.59
翌朝、私は昨日見つけた記録をもう一度確認していた。
机の上には、二つの記録が並んでいる。
一つは、現在正式に保管されている記録。
もう一つは、昨日一緒に見つけた古い控え。
どちらも、同じ事件について書かれている。
日付も同じ。
場所も同じ。
死者について書かれている内容も、ほとんど変わらない。
けれど、一箇所だけ違っていた。
古い控えには、
『遺体のそばに奇妙な印があった』
と書かれている。
正式な記録には、その一文がない。
私は何度も見比べた。
見落としているだけかもしれないと思って、前後の頁まで確認した。
ない。
別の欄にもない。
備考にもない。
印について触れた言葉は、どこにも残っていなかった。
私は古い控えへ視線を戻す。
紙は古く、文字も少し薄れている。
それでも、一行だけははっきり読めた。
書いた人間が、確かにそこに残している。
それなのに、今の記録にはない。
私はその違いが気になって仕方がなかった。
◇
検死室では、父さんが次の遺体の準備をしていた。
私は記録を手にしたまま、その傍まで歩いていく。
「父さん」
「なんだ」
「少し聞きたいことがある」
父さんがこちらを見る。
私は持っていた紙を差し出した。
「この記録なんだけど」
父さんは紙を受け取り、目を通した。
しばらく黙っている。
「昨日見つけたのか」
「うん」
「そうか」
それだけ言って、父さんは紙を返した。
「どうして記録が違うの?」
私が尋ねると、父さんは少し考えるように視線を落とした。
「古い記録なら、書き間違いもある」
「書き間違い?」
「ああ」
「でも、古い控えには書いてあるのに、正式な記録にはない」
「だからだろう」
父さんは淡々と答えた。
「正式な記録を作るときに、必要のない情報を省いたのかもしれない。あるいは、最初の記録を書いた人間が勘違いしていたのかもしれない」
「……印を見たこと自体が?」
「そういうこともある」
父さんは遺体へ視線を戻した。
「人間が書くものだからな。記録だって間違える」
その言葉を聞いた瞬間、私は以前のことを思い出した。
あの時の検死。
私は、遺体を見ていて感じた違和感を父さんに伝えた。
溺死だと決めるには、何かがおかしい。
そう思った。
けれど父さんは、最終的な記録に「溺死」と書いて中央に提出した。
私はあの時、父さんに問い詰めた。
どうして。
どうして、分かっているのに書かないのか。
私はずっと、その理由を考えていた。
そして今。
目の前にある二つの記録を見て、初めて別の可能性が浮かんだ。
もしかすると_____。
父さんは、知っていたのではないだろうか。
正しいことを書けば、それがそのまま残るわけではないことを。
どれだけ事実を記しても、正式な記録になる過程で消されることがある。
だったら。
あの時、父さんが「溺死」と書いたのも、ただ真実を見ようとしなかったからではなくて。
どうせ書いても残らないものを、最初から書かない。
そうすることで、自分を守ったのだろうか。
私は父さんの横顔を見る。
いつものように、何を考えているのか分からない。
でも、もしそうなのだとしたら。
父さんはいつから、そんなふうに考えるようになったのだろう。
検死役は真実を書く職じゃない。
この国では、正しさは選べない。
選べるのは_____どこまで嘘を書くかだけ。
そんな考え方に、父さんが少しずつ変わっていったのだとしたら。
私は、あの「溺死」という二文字を思い出した。
あの時の父さんは、何かを諦めているようにも見えた。
けれど。
それが、この記録と繋がっているのだろうか。
「……紗詠」
声に顔を上げる。
「一つの記録だけで、何かを決めつけるな」
「……決めつけてないよ」
私はそう答えた。
まだ、何も分からない。
父さんが本当にそんな理由で「溺死」と書いたのかも分からない。
あの時、何を考えていたのかも聞いていない。
だからこれは、私の推測でしかない。
「なら、今はそれでいい」
父さんはそれ以上何も言わなかった。
私はしばらく父さんの顔を見つめた。
何かを知っているようにも見える。
けれど、何も知らないようにも見える。
昔からそうだった。
父さんは、何かを話すときも、話さないときも、あまり表情を変えない。
だから私は、今の父さんの顔だけでは何も判断できなかった。
「検死を始めるぞ」
「……うん」
私は紙をしまった。
今は仕事の時間だった。
◇
遺体を前にすると、余計なことを考えなくなる。
正確には、考えている暇がなくなる。
身体を確認する。
外傷を見る。
衣服の状態を調べる。
発見時の状況と照らし合わせる。
目の前にあるものを、一つずつ記録していく。
死者は何も言わない。
だからこそ、残されたものを見落とさないようにする。
私は記録を書きながら、ふと父さんの言葉を思い出した。
『人間が書くものだからな。記録だって間違える』。
確かに、その通りなのかもしれない。
人が書く以上、間違いはある。
見間違えることもある。
必要がないと思って、書かなかったこともあるだろう。
だから、記録が違っていることだけを理由に、何かがおかしいとは言えない。
私はそう考えながら、筆を動かした。
けれど。
それでも、引っかかる。
検死を終えたあと、私は再び記録を取り出した。
古い控えと正式な記録。
もう一度、並べる。
やっぱり同じだった。
印についての一行だけが、ない。
私は二つの紙を見つめた。
もし最初から書かれていなかったのなら、分かる。
古い控えにだけ書かれていたのなら、それもまだ分かる。
けれど、この記録には、書かれていた痕跡がある。
その一行があったことを示すように、文章の流れがわずかに不自然になっている。
前の文章から次の文章へ移るまでに、ほんの少しだけ間がある。
まるで。
何か一つ、抜け落ちているような。
私は紙を指でなぞった。
古い控えに残る一行。
正式な記録にはない一行。
そして、そこだけが不自然に繋がっている文章。
私は昨日から何度も考えている。
これは本当に、ただの書き間違いなのだろうか。
それとも_____。
誰かが、残さないと決めたのだろうか。
父さんも、そうだったのだろうか。
溺死と判断したあの時。
私には見えなかった何かを、父さんは知っていたのだろうか。
私は首を横に振った。
まだ分からない。
父さんが何を考えていたのかも。
この記録がどうして変わったのかも。
誰かが意図的に消したのかも。
何一つ、確かなことはない。
ただ。
私は二つの記録を並べたまま、もう一度その一行を見つめた。
『遺体のそばに奇妙な印があった』
書き間違いにしては。
あまりにも、消え方が不自然だった。




