第三章 教団 ep.57
昨日見つけた一行が、頭から離れなかった。
_____水辺に残された印。
朝から何度も、その言葉を思い返している。
ただの記述なのかもしれない。
何かの比喩なのかもしれない。
あるいは、当時の人間にとっては誰もが知っているようなものを、わざわざ記録する必要がないと思って書き残さなかっただけなのかもしれない。
それでも私は、もう一度調べることにした。
昨日見つけた資料を机の上に置き、その記録が作られた時期と、同じ事件について書かれた別の資料を探していく。
記録には、日付があった。
場所もある。
水辺で起きた何らかの出来事。
けれど、死者の名前や事件の詳細について調べても、昨日の一行につながるものは見つからなかった。
そこで私は、同じ年代の正式な記録を調べ始めた。
記録室に保管されている記録は、種類ごとに整理されている。
死亡に関する記録。
事故の記録。
水辺で起きた事件。
土地ごとの報告。
私は昨日の資料に書かれていた日付を頼りに、同じ出来事を記録したものを一つずつ探した。
そして、見つけた。
「……これだ」
古い記録と同じ日付。
同じ場所。
同じ事件について書かれている。
私は紙をめくった。
けれど。
そこには、印のことは書かれていなかった。
昨日の資料には、確かにあった。
_____水辺に残された印。
それなのに、こちらにはない。
私は念のため、前後の頁まで確認した。
ない。
別の分類に移されている可能性も考えて、関連する記録も探した。
ない。
どこにもない。
私は昨日の資料と、今見ている正式な記録を並べた。
同じ事件。
同じ日付。
同じ場所。
それなのに、一行だけが違っている。
それが、妙に気になった。
「……なんで」
誰に聞くでもなく、呟く。
記録を書く人間によって、多少の表現が変わることはあるだろう。
見たものをどう書くか。
何を重要だと判断するか。
それは人によって違う。
だから、一つの資料にしか書かれていないこと自体は、おかしくない。
でも_____。
私はもう一度、昨日の一行を見る。
水辺に残された印。
これは、単なる感想には見えなかった。
何かを確認したからこそ、書いた。
少なくとも、その記録を残した人間はそう思ったはずだ。
私はさらに古い控えを探した。
正式な記録が作られる前のもの。
写し。
下書き。
担当者が個人的に残した記録。
いくつかの資料を確認していくと、ようやく見つかった。
そこにも、あった。
印についての記述が。
私は息を止める。
正式な記録にはない。
けれど、古い控えにはある。
さらに別の個人的な記録にも、似たような記述が残っていた。
私は三つの資料を並べた。
書いた人間も違う。
紙も違う。
作られた時期も少しずつ違う。
それでも、そこには同じものが残されている。
印。
私は指先で紙の端を押さえた。
胸の奥に、昨日までとは違う感覚が生まれていた。
印が存在しなかったわけではない。
見間違いでもなかった。
誰かが確かに見て、記録している。
ただ_____。
正式な記録には残っていない。
私はその違いを、何度も頭の中で繰り返した。
存在しないのではない。
記録されていない。
その二つは、同じようでいて全然違う。
◇
その日の検死は、斑と一緒だった。
検死室に入ると、斑はすでに遺体の状態を確認していた。
「遅ぇぞ」
「資料を調べてた」
「またか」
何気ない言葉だった。
私は返事をしながら、手袋をつける。
「昨日も調べてたよな」
「……うん」
「何を?」
「昔の記録」
「ふぅん」
斑はそれ以上聞かなかった。
私も、何も言わなかった。
遺体へ向き直る。
いつもの仕事だった。
衣服の状態を確認し、外傷を調べ、身体に残された痕跡を一つずつ拾っていく。
斑が反対側から確認している。
「ここ、見ろ」
「どこ?」
「右肩」
私は身体を傾ける。
薄い変色が残っていた。
「打撲?」
「たぶんな。ただ、死因とは別だ」
「記録しておく」
「頼む」
短い会話。
筆が紙の上を走る音。
検死室に漂う、薬品と冷たい空気の匂い。
いつもと変わらない。
けれど、ふとした瞬間に、先程見つけた記録が頭をよぎった。
正式な記録から消えた一行。
私はそれを考えながら、遺体に残された傷を見つめていた。
「……紗詠」
「え?」
「最近、何か調べてるだろ」
手が止まった。
斑は私を見ていた。
いつものような軽い表情ではない。
探るというより、確かめるような目だった。
「どうして?」
「分かる」
「何が?」
「お前、考え事してる時、ちょっとだけ周り見なくなるからな」
「……そんなに?」
「昔から」
そう言って、斑は遺体へ視線を戻した。
「詠月さんのことか?」
斑が、母さんの名前を呼ぶ。
胸の奥が、わずかに揺れた。
けれど私は、答えなかった。
「……昔の記録を調べてるだけ」
「そうか」
斑も、それ以上は聞かなかった。
そのことが、かえって気になった。
何かを知っているのだろうか。
それとも、ただ私が何かを調べていることに気づいただけなのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、今はまだ聞けなかった。
母さんの印については、誰にも話したくなかった。
少なくとも、もう少し自分で調べてからにしたい。
「斑」
「ん?」
「……何でもない」
「なんだよ、それ」
「何でもない」
斑は小さく笑った。
「変な奴」
私は返事をせず、もう一度遺体へ向き直った。
死者の身体には、残されたものがある。
傷も。
痕跡も。
時間の経過さえも。
それを拾って、記録する。
だからこそ、記録に残っていないものがあると、どうしても気になった。
◇
仕事を終えたあと、私は再び記録の前に戻った。
昨日の資料。
正式な記録。
古い控え。
個人的な記録。
四つを並べる。
違うところを、一つずつ確認していく。
やっぱり同じだった。
正式な記録だけに、ない。
私は紙をめくりながら考えた。
最初から書かれていなかったのか。
それとも_____。
途中で消されたのか。
その考えが浮かんだ瞬間、指が止まった。
私はすぐに首を振る。
そんなこと、まだ分からない。
記録を書き直しただけかもしれない。
必要がないと判断されて、省かれただけかもしれない。
けれど。
もし、そうじゃなかったら。
もし最初の記録にはあって、それが正式な記録になる過程で消されたのだとしたら。
私は、昨日見つけた一行をもう一度見つめた。
「水辺に残された印」
母さんが残した印。
そして、過去の記録から消えた印。
私はゆっくりと紙を閉じた。
まだ、何も分からない。
けれど一つだけ、確かになったことがある。
これは「存在しないもの」ではない。
誰かが見ていた。
誰かが記録していた。
それなのに、今の記録には残っていない。
だったら。
私は、その消えた一行がどこへ行ったのかを調べなければならない。
そうしなければ、母さんが残した印が何を意味するのかも、きっと分からない。
机の上には、古い紙が静かに積み重なっている。
私はその一枚一枚を見つめながら、胸の奥で小さく思った。
_____消えたんじゃない。
消されたのかもしれない。




